ボイタ法をめぐる読書メモ 1: 杉本・立岩・熊谷

ボイタ法の個人的な体験については
前のブログの以下のエントリーで書いており、


また最近読んだ本の中に見つけたボイタ法についての貴重な証言が
こちらのエントリーにありますが
『どんぐりの会物語』から興味深い箇所と、1970年代のボイタ法体験をメモ(2006/3/7)

このところ訳あってまたボイタ法について考えているので、
以前に読んだ以下の2つを再読。

・『現代思想』2010年3月号での杉本健郎医師への立岩真也教授のインタビュー
 『「医療的ケア」が繋ぐもの」

・脳性まひの小児科医、熊谷晋一郎医師の著『リハビリの夜』

前者については、上記リンクの2011年のエントリーで言及しているので、
それ以前に読んだものと思われ、手元の誌面はまっかっかになっています。

後者については以下のエントリーに、(いま読むとかなり偏った)感想を書いています。
『リハビリの夜』を読んだ 1(2012/2/9)
『リハビリの夜』を読んだ 2(2012/2/9)

以下、再読からの個人的なメモです。


ボイタ法について

杉本医師は記憶が定かでないと断った上で
「ボイタ法が出たのは80年の前半あたり」と発言している。

……あの過酷な――今から見ればいじめですよ――ボイタによって治ったという人が出てきていることを次々と報告される。

(中略)

……それは学会レベルの発表じゃなくて、親のレヴェルじゃないですか。それにボイタそのものに関するドイツでの情報を求めて現地へみんなが出向いていったわけです。ボイタのところで学んで、次にはボイタを呼び寄せて、ヨゼフが拠点になったのです。そんなわけで僕らも、早期療育をすれば脳性まひにはならないのだと思った。促通といって、末端から刺激を与えていけば脳波麻痺にならないという、今から思えば難しい理屈だったのですが、当時の思想にとっては飛びつくような内容だったのです。

 その流れが何年かあって、そこにドーマンと同じ流れからボバースが入ってきた。ボバースは大阪が拠点になって、大坂のボバース記念病院対京都の聖ヨゼフ整肢園という脳性まひを早期療育して治すという二大教祖が並び立ったわけです。
(杉本 p. 58)


このあと、東では東大の児玉和夫先生がドイツへいって、
西ではヨゼフの家森先生が「ボイタの教えを振」った、と。


……「偽性(過剰診断)」脳性麻痺が多すぎた。つまり、やらなくてもいい人にそういうボイタ法をずいぶんとやったという歴史がある。「早期発見、早期治療、早期療育」という言葉のごとく、ちょっとでもおかしかったら念のためにやりましょうということで、ボイタ法の大パニックがあったわけです。
(杉本 p. 60)

……治るということで、早く診断をつけなければいけないということが、当時の小児科医や小児神経科医の責務であり、それを見逃すことがすごい罪悪であるという、一般的な認識があったわけです。……もし違っていたらまずいーーこれは治療としてのまずさであって、その子にとってのまずさではありませんがーー、ということで裾野を凄く広げた。それに加担したし、せざるを得ない風潮があったことは確かですね。
(杉本 p. 61)

一方、
『リハビリの夜』の「脳性まひリハビリテーションの戦後史」によると、
エアーズ、ボイタ、ペトーなどの治療法が日本に紹介されたのは70年代中ごろ。

私が母子入園で習ったのが、海が1歳の時の1988年。
入園外で都会の専門職から耳に挟んだ話では、
都会ではボイタにはすでに批判的な声も出て、
徐々にブームはボバースへとシフトしつつあるということだった。

熊谷医師自身も3歳くらいまでボイタ法をやっていたという。

 ボイタ法は正常発達をガイドするために自動的な姿勢反応と平衡反応を活性化しようとするものである。治療は不快であり、子どもたちはしばしば泣く。ボイタ法は、ヨーロッパをアジアで使われて、アメリカ合衆国では、決して人気が高くならなかった。

(中略)

 この時代、マスコミは「脳性まひは治る」とセンセーショナルに書き立て、これに翻弄された親子があるのも事実だ。親(特に母親)の多くは、ほとんどのことを犠牲にして子どもの訓練に集中していた。
(熊谷 p.86)



ブームの終わり方について

立岩:大勢としては、そうやって2~3年やったけどうまくいかなかったし、やることもあまりに乱暴で痛そうだから、だんだんと低調になっていく。

杉本:5~10年くらいかかったね。
(p. 61)


……自分たちが見ていた脳性麻痺の子たちをボイタ法のところに送り込んで、二~三年やってみても治らないということがあります。それに加えて、親が毎日3回以上押さえつけるわけですが、子どもは泣き叫びますし、見ておれないような悲劇的な行いを強制するわけです。それは発達にとってナチュラルではないと。こうしたことが、二~三年やる中で見えてきて、結果的にも脳性麻痺になってるじゃないかというのが見えてきたところで、紹介しなくなってきたし、否定的にもなってきたのです。
(p. 59)


この「発達にとってナチュラルじゃない」というところこそ、
私が母子入園でボイタ法をやれと言われた時に感じた抵抗感だったわけで、

こんなの、素人の私にだってすぐに分かったし、
「発達」というものを身体機能だけで留まらない一人の人間の全体で捉えたら
誰だってわかって当たり前のはずだと私には思えて仕方がないんだけど、

当時の医療職が2、3年やってからでないと分からなかったというのは、
やっぱり医療が人間に向けるまなざしが、いびつだからなんじゃないだろうか。


立岩氏はそうしたリハビリテーションに対する障害当事者からの批判として、

 そういう子ども時代を過ごした人にとってはある意味で忌まわしい、痛かった記憶として残っていて、それは脳性麻痺の障害を持っている人たちの医療に対する不信や反感の根っこになっていった。
(p. 61)


熊谷医師は、その後「科学的根拠」が必要とされる時代に入り、
さらに障害者の自立生活運動の勃興から
「専門家主導ではなく当事者中心のリハビリを」
「健常者に近づくためではなく、社会参加の平等に照準した配慮を」という
思想的潮流が確立してきたことが、
1980年にWHOで採択された「国際障害分類(ICIDH)」や
その改訂版である2001年の「国際生活機能分類ICF)」につながったと説明する。

いっぽう、熊谷医師は「熱狂再燃の気配」への懸念についても書いている。

「回復アプローチ」におけるリハビリの限界と、それによるクライエントの不満を、「障害受容」という言葉で抑圧しようとする現場の専制性は、今なお続いているようだ。これは「障害受容を行える患者は優れている」という規範の元でクライエントを裁く《まなざし/なまざされる関係》の一つであり、許されるべきものではない。
(p. 90)


が、それを否定する善意のセラピストによって、脳科学の進歩に期待し、
「機能と構造」レベルの回復が再び目指されていることから、
「根治を夢見るかつての集団的熱狂が再燃するのではないか」

そして、その懸念を前に、
脳性まひという身体を「克服すべきもの」として捉え、
それを克服することに情熱を燃やすという同化的な考え方
著者は《まなざす/まなざされる関係》として、

本書では個人的な体験からその危険性を述べてきたのだ、と。


(次のエントリーに続きます)