ボイタ法をめぐる読書メモ 3: 石川憲彦 『治療という幻想』 (後)

前のエントリーからの続きです)


石川氏の「療育」批判で、とても興味深いのは、
この章が次の「教育(せんのう)的治療」の章へとつながって
「療育」が教育に及ぼした影響への批判の舌鋒が非常に鋭いこと。

発達保障論への批判でも2つの章はつながっているんだけれど、
そちらは私にはほとんど知識がないので省略。

一方、ボイタ法やボバース法が養護学校の中に
運動機能訓練法として取り入れられていたという第5章のくだりを読んで、

そういえば海の小学校時代のどこかまで、
時間割の中に「訓練の時間」というのがあったのを思い出した。
(すっかり忘れていたことに衝撃があった)

著者は、そういうことや、教研集会での教師たちの発表に見られる
子どもへの操作的なまなざしなどから「教師の療育者化」を批判している。

なるほど、なぁ……。

母子入園の時に「『療』ばっかりで『育』はどこにもないじゃないか」と憤然とした私も、
海が養護学校に上がるころには、すっかり医療に取り込まれていたということか。

母子入園で「ここには『育』がないっ!」と腹立たしかった私も、
海がボイタ法で寝返りに成功して後は、
「この子の生活の中に、いかに遊びとしてリハビリを取り入れていけるか、
それこそが親の腕の見せ所よね」などとホザきながら、
結局はリハビリに熱心に取り組んだ。

訓練や診察にいくたびに、
「ほら、私ってこんなに熱心な優秀な母ですもん」と
専門職の評価のまなざしに自ら迎合していったし、

だから、なんで学校で「訓練」なんだ? という抵抗も疑問もなかったし、
むしろ「わ、学校で訓練してもらえるんだ、めっけ…」みたいな感じだった。

そういえば、学校の時間割から「訓練」の時間がなくなった時には、
障害児へのコスト削減策があからさまになってきたことに対して、
「どーしてくれるんだ?」と親仲間みんなで腹を立てたっけな……。


石川医師が「教師の療育者化」を批判するのは、
もともと「療育」とは医療だという捉え方が前提なんだと思うのだけど、

古典的医学へのアンチとしてリハビリテーションがもたらした「療育」によって、
教育もまた「適応主義的公教育」の非人間性からの脱却を目指したはずなのに、
医療がリハビリの限界性を自覚した後にも、
教育はむしろ「人間らしい発達」を規範化し、
「子どもの生活に対する弾圧的管理が繰り広げられて」
一般教育でまで以前に増した「管理的・抑圧的教育」となっている
との批判として激烈な口調で展開される。

(ここらへん、個人的には、
やっぱ著者は自分が属している世界に評価が甘いんでは、という感じもするんだけど)

でも、それをいうなら、
母子入園での母親への「指導」と「教育」こそ、
「家庭に医療が求めるリハビリと医療的配慮を引き受ける良き機能であれ」と
それこそ「せんのう」的な母親の「療育者化」のもくろみ以外のなにものでもなかった。

3人の医師のボイタ法ブームについての発言を読んできて、
3人の誰一人、ここに目が向いていないことが、やっぱり私は不満。

だって、それとまったく同じことが、
在宅医療とか在宅支援、地域包括ケアという名目で
いま医療主導で家族に対してまた繰り返されているのに――。



『治療という幻想』に話を戻して、

著者に言わせれば、古典的西洋医学の中では
「医学は部分の論理においてしか操作できないという、論理的自覚が存在していた」(p. 170)。

たとえば、
手術とは「詩的に語るなら、生命力に期待して部分を操作する」(p.170)ことであるように、
古典的医学は生命を守ることがすべてに優先する全体性と捉えていた。

それに対して、「療育という新しい医学の流れは……
部分の論理を全体の論理であるかのように語り始めたのである」(p. 171)

つまり脳の可塑性を人為的に高めてやることによってCPは直ると考えたのだ、と。

(じゃぁ、やっぱり意図が「ヒューマニズム」だったかどうかの問題とは別途、
単的に科学的な考え方として過りだった、ということなんじゃないのかなぁ)

分かりやすいのは、
「医者は病人を癒すもので、病気だけを直すものではないといわれる。このいいまわしのなかに、全体の論理と部分の論理が対比されている。しかし、部分と全体の区別のないところでは、巧妙な部分と全体の理論の倒錯が起こってくる」(p. 172)

そこに著者は「日本的な混同」が忍び込む「日本的独自性」とか「日本的風土」を見る。

(でも、これも私には、著者が
自分が属する世界に対する甘さを「日本的風土」という言葉で
ちょろまかしている感じがしないでもない。

それは実は「日本的風土」ではなく、
むしろ「日本的な医療の権威主義
行政と不可避的に結合して起こしたこと」だったのでは?

あるいは医療の中に国家や政治によって利用されやすいものが潜んでいるからでは?
例えばナチスによる障害者やユダヤ人虐殺でのように?)


興味深いのは、著者のリハビリテーション批判の根底にあるものが
「直し」から「直り」への志向であり、著者の「直り」の概念には
熊谷医師の「ほどきつつ拾い合う関係」に近いものがあると感じられること。

つまり、
「個人の機能の問題にのみ問題を帰していく発想の貧しさ」(p. 187)への批判。

ただ、その「発想の貧しさ」にしても
冒頭で引用した箇所の「関係的ここ」の欠落の指摘にしても、
リハビリテーションだけじゃなくて、医学そのものの問題のような気もするし、

どうも著者は医療という狭い「懐中電灯」的明かりの中で
ぐるぐる自分の尻尾を追い掛け回して捕まえられていない感じがある。

それとも、
「直る」と称して「直そう」とした「ヒューマニズム」に加担した人の言い訳がましさが
この章では著者の言いたいことを分かり難くしているだけなのかな。

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ちなみに、なぜ私がいまさらボイタ法にこだわっているかというと、

ボイタ法のブームで起こったのと似たような構図が、実は
“アシュリー療法”で繰り返されているんじゃないか、という気がしているから。

生殖器官とか身長という「部分」への操作で、
重症児が者になっていく過程で起きる問題の全体を解決できるというのは
幻想でしかないのに、

親が「なんとかしてやりたい」「そのためには何をも厭わない」と思いつめ、
やがて思い余る中で、その「余る」部分を持っていく先、引き受けてもらう先として、
とりあえず医療技術のポテンシャルが目に入りやすいのではないか、

また我が子の将来の不確実さにおびえる親には
医療のポテンシャルが確実な成果を約束してくれるもの、
すがりついていくことのできる唯一「確かなもの」に見えてしまうのではないか、

もともと医療の論理で患者を「指導」し「教育」し「管理」しようとする
医療の文化と姿勢がそれを拾う形で、

親の「愛情」と医療サイドの「善意」が結託して
「治る」とか「QOLを維持」「ずっと在宅介護で幸せ」といった
共同幻想が維持されてしまう構図、

そこに不作為の共謀関係(むしろ共依存関係?)とでもいうようなものが生じて、
「愛」と「善意」によって本人の生活が制限されたり奪われたり、
尊厳や人権を侵害されてしまう構図、

それでも、それが医療の主導で行われていれば、世間もまた、
特に科学技術への期待が科学の確実性幻想を拡げている今は、
その共同幻想共依存関係に進んで加担していきやすくなっているのではないか……、
(あのSTAP細胞事件のように)

……みたいなことを、まだ未整理のままだけど、ぐるぐるしている。