相模原障害者殺傷事件で、立岩真也先生が共同通信に寄稿


共同通信に掲載予定ということなので
掲載されたら転載させてもらおうと思ったのですが、
よく見たら先生ご自身が「拡散希望」として流されているので、以下に。



安楽死の主張や優生思想・優生主義には種々の意味があるが、他人にとっての損得によって、時に人を生まれないようにし、時に人に死んでもらおうという考えや行いだと捉えたらよい。これは歴史的な事実でもある。

そしてその他人たち、つまり私たちにはそれを支持してしまうところがある。その方が楽で都合がよいからだ。その「内なる優生思想」を自覚しつつ、とにかく殺すのはだめだと言い続けてきた人たちの主張を受け止めねばならない。ヒトラーなど持ち出して「とんでもない」と言えばおしまい、にはならないのだ。

次に、本人のためという言葉を使って、実のところは私たちの都合のよさを実現するのは、優生思想・安楽死思想の常套手段だ。私たちの都合が大切でないと私は言わないし、言えない。ただすくなくともそれを、本人のためだと、死んだ方が幸せだなどと、「死んでも」言わないことだ。

容疑者はそれを言う。狂気・妄想でなく間違いなのだ。そしてこの容疑者をどうしたらよいかを説く「専門家」たちが、容疑者と等しくとまで言わないが、乱暴だ、そしてずるいと私は感じる。

精神医療の充実を、とその人たちは言う。だが何をするというのか。おおむね薬物の投与しかしない精神医療で何かできるようには思えない。そして、薬で、医療でこの間違った思想を直そうというのは乱暴だ。

結局、医療というのは名目で、監禁しておくために精神病院を使えということでしかないのではないか。つまり本人のために存在するはずの医療を、隔離のために使うことを支持していることになる。そしてそれに気づいてもいないか、事実を隠している。人や人の未来を評定することの難しさを甘く見ている。この点で、優生主義者と、容疑者と、容疑者を責める人は共通している。

では代わりにどうすればよいのかと問われるだろうか。私は、死刑制度には反対するが、刑罰全般を否定できる人間ではない。ごく短く言えば、「現行犯」として対処するべきだし、対処できると思う。これ以上の説明はここでは略す。

そして、それとともに、優生主義を根絶はできないとしても、その勢力を弱くすることだ。そしてそれは可能である。

一つに、できる人が得をするのは当然だ、できることにおいて価値があるというこの近代社会の「正義」が優生主義を助長している。それをのさばらせないことである。

一つ、優生・安楽死思想は人を支える負担の重さの下で栄える。辛いと殺したくなるということだ。負担そのものをなくすことではできない。だが一人ひとりにかかる度合いを減らすことはできる。するとこの人はいなくなってほしいと思う度合いが少なくなる。