「無益」「潜在的不適切」「分配」めぐるTruogらのコメンタリー

「医学的無益」という概念が、長らく定義されることがないまま、
なし崩し的にQOLを根拠にした治療拒否の論拠として機能してきたことについては、
例えばこちらのウーレット関連のエントリーを始め、
前のブログから継続的に「無益な治療」係争事件の情報を追いかける中で、
何度も触れてきましたが、

最近の新しい動きとして、
medical futility 医学的無益性 という概念について、
2015年に呼吸器内科を中心としたいくつかの学会が共同で、
生理学上の効果がありえない場合についてのみとする
狭義の定義を打ち出していることについて、
以下のエントリーで簡単にとりまとめています。



そこでは、「無益」という概念を医学的に「効果がない」というテクニカルな判断に限定し、
いくばくかの効果は見込まれるものの道徳的な価値観の対立がありうる治療については
潜在的不適切 potentially inappropriate」という概念と文言を当てる、
という整理がされており、

私には、
混在する指標による無益性判断の中から
QOL指標による「無益」性判断を「潜在的不適切」として区別して取り出すことによって、
むしろ「QOLが低い生は治療に値しない、よって治療は不適切」とする価値観を追認し、
新たな基準として明示することにはならないだろうか、という疑問もあるのだけど、

その先には、すでにレーショニング(配給・割り当て)概念が透けて見えている。

Truogらが、この3つの概念が混同されている事態を以下のコメンタリーで指摘し、
整理を試みている。

What to Do When There Aren’t Enough Beds in the PICU 
Commentary by Michael A. Rubin, Md, Ma, and Robert D. Truog, MD
AMA Journal of Ethics, February 2017, Volume 19, Number 2: 157-163


レーショニングについて、また無益性に関するTruogの発言については
関連エントリーが多数あるので、いずれも文末にリンク。
(ただし、それぞれのエントリーを書いた時の私の知識が不十分な部分もあります)


タイトルは「PICU(小児集中治療室)のベッドが足りない時どうするべきか」

アブストラクトは以下。

The concepts of medical futility and rationing are often misunderstood and lead to significant consternation when resources are stretched and pediatric intensive care unit (PICU) beds are unavailable. While the two concepts overlap, each has its own distinct application and moral justification. Most importantly, we should avoid using one to justify the other. Bioethics professionals should assist critical care clinicians in clarifying when each rubric should be applied as well as how to develop policies to standardize the approach.

医学的無益とレーショニングという概念はしばしば誤解され、
資源が不足しPICUのベッドが使えない場面で大きな狼狽につながる。

これら2つの概念は重なり合ってはいるが、
それぞれ独自に明確な適応と道徳的な正当性がある。

何よりも重要なこととして、一方を他方の正当化に用いてはならない。

どういう時にどちらの論理を適用するか、
またアプローチを標準化すべく方針を作るにはどうすればよいか、
生命倫理学の専門家が明確に示すことによって現場の医療職を助けるべきである。


冒頭で例示されているケースは、ざっと以下。

手術のために患者をPICUに入院させたいと希望する小児外科医と、
ベッドが足りないので対応を迫られるPICU責任者の医師とが、
無益な治療を受ける患者が長期入院している現状は
医療資源の不適切な使用、医療職のプロとしての自律の侵害だと捉え、
明らかに効果のある外科手術の為にベッドを空けるべく、
治療を引き上げるための方針を作るべきだと考えたが、

倫理コンサルタントは、
2015年の多学会の基準では大半の患者の治療は潜在的不適切となり、
結局のところベッドはさほど空かないので、十分に空ける為には
むしろレーショニングの方針と基準を全員出席の倫理委員会で作るべきだと提言した。

(途中で2人の医師の性別を著者が混同しているとしか思えず、
もともとややこしい話が、さらに判りにくくなっているんだけど)


この例示によってコメンタリーが指摘しているのは、
2015年の多学会の声明では、
無益あるいは潜在的不適切に基づいて治療を拒否することと
レーショニングに基づいて治療を拒否することとの区別がされていない、という点。


Truogらの問題意識としては、以下の下りか、と。

As our ability to prolong life with increasingly sophisticated devices and methodologies improves, and as the cost of these technologies escalates, questions like the ones raised by this case will become more pressing, making it necessary for us to understand the distinctions among these concepts as well as their correct application.


無益を狭義に定義した点では多学会の声明の意義は見出すものの、
(この定義だと、資源の利用可能性や関係者の価値観を問わず、どの患者にも行うべきではないから)

結局のところ、治療の不開始または中止の論拠となり、
合意できなければプロセス重視の問題解決方法に頼るという点では、
無益と潜在的不適切は近似の概念であり、

無益あるいは潜在的不適切という概念は患者を他の患者と比較するわけではなく、
レーショニングの判断では、多数の患者が比較され、その間に優先順位がつけられる。
何の間の比較であるかという点でも、くっきりと違いがある。

さらに、決定に加わるステークホールダーが両者では異なる。
とりわけ、患者がそこに加わるか否か、という点。
レーショニングの決定には、固有の患者は関与しない。

従って、
2015年の多学会の声明は無益と潜在的不適切な治療についての方針を提示しているだけで、
別途、レーショニングの方針が必要と、主張。

それについては

Ideally, rationing decisions should be as objective as possible, based on maximizing medical benefit within the limitations of resources constraints and following agreed-upon principles of allocation.

理想的には、レーショニングの意思決定は、限りある資源という制約の中で医学的利益を最大にし、合意された分配原則に基づいて、可能な限り客観的であるべきだ。


ただ、著者は、
社会がレーショニングの必要という現実と正面から向き合おうとしない限り、
ここが明確にならない、とも。


私自身は、
拙著『死の自己決定権のゆくえ』で批判した
ピーター・シンガーやノーマン・フォストらのコスト論としての「無益な治療」論こそが
まさに著者がいうレーショニングと無益論の相互正当化だった、と思うし、

それらが噴出したゴンザレス事件やゴラブチャック事件があったのが、
2007年、2008年であることを考えると、

そこが医療倫理の問題として整理され分離されるために10年もかかったのかと
ちょっと茫漠とした気分になるし、

その間に医療現場でも社会でも
QOLの低い生は生きるにも医療コストにも値しない」という価値観が
すでに共有され広がってしまっていることの恐ろしさを改めて考えてしまう。

それを考えると、やっぱり
医学的なテクニカルな問題として「無益」概念がやっと切り離されたところで、
むしろ医学的な指標以外の道徳的、社会的な価値観での判断になるという点では、
Truogがいうような「無益」「潜在的不適切」vs「レーショニング」という区別よりも
多学会の声明によって「無益」vs「潜在的不適切」「レーショニング」という区別が
よりリアルにされてしまった……んじゃないのかなぁ。

私自身は、
「無益な治療」論と「死ぬ権利」議論との相互作用によって
QOLの低い生は生きるにも医療コストにも値しない」という価値観が
社会にも医療現場にも広がりつつある中で、

個々の医師が医療コスト削減の責任を負わされていると感じ、
医師によっては、個々の主観的な価値判断をそのまま
「ベッドサイド・レーショニング」の決定に置き換えてしまうリスクこそが
「無益な治療」論の「すべり坂」の怖さと考えてきた。

いま「森友学園問題」で日々あぶりだされている「忖度」の文化である日本では、
これがとても見え難い形で進行していると考えているし、

現に、私の身の回りでは、
重症児者の治療以前の検査について
「こういう人にそれだけのおカネをかけて検査はできない」と
主治医から言い渡された、という事例を聞いている。

日本にTruogが言う明確なレーショニングの方針があるとは思えないし、
そもそもTruogが言っているのは医療機関ごとの方針のこと。

Truogがいうような特定の資源(例えばPICUのベッド:ここでは検査資源)が限られている前提もないのに、
医師が、あたかもどこかに一般的な基準があるかのように、こういうことを言う。

私には、
それはその医師個人の恣意的「ベッドサイド・レーショニング」と思えるのだけれど、
違うんだろうか。

(もしかしたら、この状態では治療は無益だという自分の判断を親にきちんと説明して、
同意を得るプロセスに自信がなかったり、それを面倒だと感じて、そこを迂回する口実として、
暗にレーショニングを匂わせながら「こういう人には検査はできない」と言った可能性も、
その事例では感じるのだけど)

私たち日本の親は、主治医からそういう言い方をされたら
我が子はそういう存在なのだと思い知らされたことが、なによりも悲しい。
我が子の命がそういう線引きをされてしまうことに深く傷ついて、力を失い、
憤りをもって「治療を受ける権利」を訴えるという方向には向かいにくい。

それを思うと、日本の医療現場には、
医師個々の偏見や恣意的な判断による「ベッドサイド・レーショニング」が
いくらでも滑っていくリスクがあるんじゃないか、という危惧が
私にはぬぐえないところがある。






なお、1992年の論文Beyond Futilityの日本語訳(加藤多喜子訳)がこちら ↓
無益性概念が分配の正当化として利用される懸念を提示している。
http://square.umin.ac.jp/~mtamai/NEONATE/Truog.htm