自分の非を認めずにできる「謝罪」がある、ということの不思議

海が生まれてからの30年間、
ずっと、いろんなものと闘い続けてきたなぁ、という気がする。

最初は海が生後6ヶ月くらいのとき。
拙著にも書いている暴言医師が相手だった。

科学的な説明など何もなく、いきなり、
「うっわぁ、脳波はぐちゃぐちゃじゃあ」
「この子は脳なんか、ないようなもんでぇ」
「まぁ、あんたは詳しいことは知らん方が身のためよ」

我が子の障害を知らされて混乱し動揺している若い母親に向かって、
こんなことを言えるゲスが、どうして大病院で小児科医をやっていられるのか、
ぜんぜん理解できなかったし、どうしても許せなかった。

憤怒に身もだえしながら便箋11枚の抗議の手紙を書いて病院長に送ったところ、
すぐに庶務課長から電話があって、先生と一緒にお詫びに伺いたい、と言われたので、
あんな人の顔は二度と見たくないし、証拠を残したいので謝罪は文書でいただきたい、とお返事した。

数日後に、その医師から手書きの手紙が送られてきた。

「脳波の所見で甚だしい異常が見られたため、つい心に浮かぶまま、
ぐちゃぐちゃだとか脳はないようなものといった表現をしてしまいました。
申し訳なく、心からお詫びいたします」

だいたい、そんな文面だったと記憶している。

当時、それを十分だと感じたわけではもちろんないのだけど、
いま思えば、あの暴言医師の謝罪は、至極まっとうだったなぁ、と思う。

なにが、といえば、
自分が何をやったかということを
そのままに認めた上で謝罪している点。

今にして思えば、
あれは、案外にアッパレな人だったのかもしれない。

その後の30年近い年月を振り返ると、
自分が強い側にいることを自覚している人が「やってはならないこと」をやって、
それを弱い側から突っ込まれた時の反応パターンはほとんど同じだったから。

まず脊髄反射的に、
自分がやったことは、そうじゃない、別のものなのだ、と否定してかかる。

そういう人たちは、
どこかで「弱い立場=知識もなく頭も鈍い」と侮っているから、
驚くほど雑な言い訳でも、誤魔化しきれるとタカをくくっているのだろう。

あなたは素人だから正しく状況を理解することができず、「誤解している」だけなのだよ、
専門的に見れば、私がやったことはあなたが思っているような不実でも間違いでもないのだよ、と
諭してやるように上から目線で強弁すれば、簡単に言いくるめることができる、と。

そんな「ゆるい」論法で黙らせられると本気で信じていられることが、
そもそも相手を侮り、舐めてかかっている証拠なのに。

いつも思うのだけど、
「自分は偉い」と思っている人間って、本当に愚かだ。

だから、思いがけず相手から論理的に反駁され矛盾を突かれれば、
強い側はそのことに苛立ちながらも、言うことは、その都度、一貫性なく変わっていかざるをえない。

そんなふうに一貫性なく言うことがコロコロ変わっていかざるをえなくなることを
「ボロを出す」というのです。

それでも、その都度、とりあえずの言い訳をどこかから見繕ってくることを、
「詭弁を弄する」というのです。

そして、どうやら、
弱い側から非を指摘され、挑まれた強い側は、
いよいよ自分の論理が破綻して来たことを自覚すると、
決まって同じ「謝罪」の言葉を口にするものらしい。

「辛い(不愉快な)思いをさせて、申し訳ありませんでした」

この30年間に、私は
医療職から何度これを聞かされてきたことだろう。

学者から出てきたのは初めてだったけど。

(でもって学者って、
「謝罪」しながら相手に説教まで垂れるから、これまた、びっくり)

自分がやったことを認めてなんか、いない。
したがって当然、自分の非を認めているわけではない。

自分は何も悪いことはしていないのだけど、とにもかくにも、
誤解であれなんであれ、あなたは辛い(不愉快な)思いをしたみたいだから、
そのことについては、申し訳なかったね、と。

私はあなたが言うような悪いことはしていないんだけど、
あなたが勝手にイヤな思いをしたみたいだから、
それについては、悪かったね、みたいな。

自分はそんなことはやっていない、と言い張り続けながら、
どうして「謝罪」することができるのだろう?

ところが、そんな、めっちゃ器用な芸当をできる人が
どうも世の中にはたくさんいるらしいから不思議でたまらない。

つまるところ、
強い側に身を置く自分の有利を知っている人たちだけが、
自分の非を認めずに謝罪したことにできる、便利な定型句なんだろう。

形だけは謝罪してやるから、これで黙ってすっこんでいろ、と。
まるで野良犬にでも、投げ与えてやるかのような、「謝罪」――。

そんな「謝罪」があるものか。

あってたまるものか。