生から死への passage

ケベック州で州政府主導の自殺幇助合法化法案が審議され、それに対して
中央政府が「議論するのは州の権利だけど政府はあくまで合法化反対」と
明言したばかりのカナダで、

Toronto Starにコラムニスト Rosie DiMannoが
なかなか心に沁みる文章を書いている。



特に印象的なのは、以下の2つのあたり。

まずは理屈ばった箇所から。
(日本語は全訳ではなく、要旨、あらましです)

My own father, through half a year of hospitalization and multiple surgeries, was in unbearable agony in his final weeks of consciousness. He screamed from the pain and I screamed watching it. But when he begged to make it stop, he didn’t mean “end my life.” And it never crossed my mind to think, “Kill off this man as an act of kindness.”

What I wanted to do was kill the medical men and women around him who were failing so monstrously to alleviate his pain. My father did not need assisted suicide. He needed assistance to manage end-of-life traumas that assaulted his body.

父が死の直前に苦痛から「こんなの、もう止めてくれ」と懇願したとき、
それは「命を終わらせてくれ」といったわけじゃなかった。

見ている苦痛から私も思わず叫び声を上げたけれど、
だからといって「思いやりとして、この人を殺して」と思ったことなどなかった。

私はむしろ、
患者の痛苦を軽減せず平然と構えていられる、
父の周りの医療職を殺したいと思ったのだった。

父に必要だったのは自殺幇助ではなく
彼の肉体を襲っている終末期のひどい症状の管理だった。


「どんなにケアしても緩和できない痛苦はある」ということが
PAS(医師による自殺幇助)合法化の理由に挙げられるけれど、

実際に私たちが体験してきた、愛する人の終末期の苦しみは
本当にそういうものだったろうか。

「どうして、もっと痛み止めを増やしてくれないんですか!」
「鎮静が切れて苦しんでいるのだから、看護師さん、医師に連絡してください!」
と、事務的に作業する白衣の人の胸倉を掴んで食って掛かりたいのを必死でこらえて、
もがく病人の体を押さえ、必死で声をかけてなだめながら、
身の置き所のない思いで何時間も何日も付き添った、という人が
実際には多いのではないのか。

この人が言うように、
「こんなに苦しむなら、いっそ殺してやってください」ではなく、
「今すぐ、この人をもっと楽にしてやってください」と
叫びたかったのに、

こんなに苦しんでいる人を前に、その痛苦を軽減するすべを持ちながら、
少しも親身になってその努力を払おうとしない白衣の人たちが
あまりに冷淡で無関心だから、それを言うこともできないまま、
あるいは勇気を出して言ってみても、はねつけられて、

その人たちに対してこそ、
殺してやりたいほどの苛立ちを覚えたのではなかったろうか。

「どんなに手を尽くしても」というほどに緩和に熱心ではない医師が
現場には沢山いることも、ちゃんと知っている医師は多いのでは?


もう一つ、こちらはじわりと心に沁みた箇所を――。

We forget what every other generation before this one has understood in its bones: That dying, with all its miseries, is a part of living; that we do not and should not get to choose the moment of our death any more than we chose the moment of our birth; and that those who exist in the shadowy realm between life and death are in a state of grace, which is the gift they give us ― to witness and feel this existential dimension, this passage. It is a spiritualism few of us would otherwise experience and it matters not if you’re a person of faith or an atheist.


こちらはなるべくなら日本語にせず、
原文のまま受け止めたい箇所。

私にはうまく日本語にする自信がないので
自分自身の理解の範囲で、かいつまんで試みます。
(十分ではないです。ごめんなさい)

私たちの前の世代が体で知っていたことを
私たちは忘れようとしている、それは、

死の苦しみも、生きることの苦しみと同じく、生きることの一部であり、
生まれる時を選べないように死ぬ時も選べないし、選ぶべきでもない、ということ。

生きているとも死んでいるとも定かでない“あわい”にいる人というのは、
ある種の grace (神から恵みを受けた状態?)の状態にある、

その生から死への passage を目撃することによって、
私たちは人が「生きてある」ということの深みを感じることができる、

そして、それこそが
死に行く人たちから我々への贈り物なのだ、ということ。


英語圏のコラムニストに
このような深い洞察を持った人がいることが嬉しい。

grace や gift という言葉などから、
宗教的な背景が云々と分析したい人もいるかもしれないけど、

ここで書かれていることは、
特定の宗教だとか、宗教そのものとはまた別の
誰でも心の中に持っている、宗教的であったりスピリチュアルであったりする
そんな心の奥深いところの話ではないか、と思う。