「人格」と「尊厳」をめぐる偶然

この数日、たいへん興味深い「偶然」が続いていて、
その偶然が私の頭の中で「糸をつむぐ」ような感じに
人が考えていることを繋ぎ、まとめていくような印象でもあるので書いておこうと思って。


まずは、ここしばらく私自身が考えていることを
10日に以下のエントリーに取りまとめた。


続いて16日のエントリーで取り上げた認知症の人々の痛みの管理に関する論文で
著者が「認知症の人はノンパーソンではない、ノンパーソンとして扱えば扱うほど
ケアする側の人格が損なわれるのだぞ」と書いていた一節が、気に入ったのだけど、


するとその翌日に読んだ田中智彦氏の論考(この本の最終章)で

生命倫理では「語られ、議論される」ことがどんどん広がっていく背後で
「語られもせず、議論もされない」ことが生み出されていることを指摘。

そこでは「何が問われてこなかったか」を丁寧にたどることによって

生命倫理
「天然資源」としての「人体」の「採掘権」を手に入れる方策に腐心する「生政治」が
私たちに自ら「武装解除」させるための文化的社会的「装置」と堕してしまっていることを
とても鋭く描き出している。

コント=スポンヴィルの「民主主義的野蛮」の次のような定義も紹介される。

合法性が道徳のかわりを務め、民主主義が良心のかわりを務め、(語の法律的な意味での)権利が義務の代わりを務める。



そして、この論考では「尊厳」について掘り下げていくあたりがとても面白い。
例えば、

……いいかえれば、「彼ら」(spitzibara注:マイナスを背負った人々)の「尊厳」を問うこと、「生きるに値するか」と問うこと自体が、そのように問う者自身の「尊厳」を傷つけるということであり……
(p.247)
(まさに認知症の人のケアを巡るカナダの学者の論文の一節!)


さらに「私」にはもともと「尊厳」があるとみなすところからもう一歩踏み出したいとして、
以下のように書かれている。

……「私」たちはまず互いに誰かの「隣人」になろうとするのでなければ、したがって「他者」をしてまず「尊厳」ある者にするのでなければ、「私」自身を「尊厳」ある者にすることはできないということになるだろう。
(p.252)

このように見えてくると、「尊厳」とは最も人間らしい「贈り物」の一つだと言えるかもしれない。私たちはそれを「道端に転がっている生気のない無名の肉体」にも贈ることができる。たしかに渡辺の言うように、「動物にはできない人間にのみ可能な選択」であるだろう。翻って私たち一人ひとりに「尊厳」がありうるのも、それを互いに贈りあうことができるからに他ならない。
(P. 252-3)


すると、そのまた翌日、
高谷清氏が人間発達研究所通信に2008年から2010年にかけて連載された
「発達論的エッセイ」と「『発達論』論議」を読んでいたところ、

高谷氏は、既成の発達論やその他の議論に対して
それは重症心身障害のある人にとってはどういうことになるのか、という視点に
それらの議論を押し戻しつつ、重い障害のある人たちのところからの「問い直し」を続ける。

その問い直しを丁寧に積み重ねつつ
「発達」と「人格」と「意識」を考えていこうとする試みにおいて

例えば、西田幾多郎
「人格とは他人を人格とする事によって自分を人格とするものなのである」
といった言葉を引き、

発達の中に人格を内包する位置づけで発達論を組み立てることへの違和感を表明。
個の人格と普遍的な人格性という2つを人は共に内蔵しているものだとの
認識を示している。

……その人類性(人格性)を個において実現しているのが人格であるといえる。つまり身体を持つ個人は人格を有しているとともに人格性を内蔵しているのである。
(2008年6月号 p. 10)

 私はその人がどのような状態にあれ(意識がない状態であっても)すべての人と同じように人格性に裏付けられた人格が存在すると考えるのである。
 さらに死者についても、その死を悼む人がいて、深く心を寄せていれば、その人は死者に対して人格を感じているし、その時その死者には人格性が存在するのではないだろうか。
(同上)


私が拙著『アシュリー事件』の第9章で
ナオミ・タンらの“アシュリー療法”批判を引いて書いたのは、
ちょうど田中氏や高屋氏の言っておられることの印画紙のようなことだったろうか、と
久しぶりに『アシュリー事件』を引っ張り出してみた。

 人が誰かを「どうせ障害児だから」「どうせ黒人だから」「貧乏人のくせに」「女のくせに」と見下し、その卑しい欲求を言動として無反省に解き放ってしまう時、その人は人としての自分の品性をかなぐり捨てて、ゲスになっているのだ、と思う。そしてゲスになることを自分に許すことによって、その人は自らのヒューマニティを損なう。同時に、隣の人の卑しい欲求を刺激し、「どうせ」の共有が広がっていく。そうして、さらに多くの人間のヒューマニティが損なわれ、ひいては総体として人間社会が本来持っていた思いやりや共感や慣用や、つまりは人類総体としてのヒューマニティを損なうことに繋がっていく。
(p.158)

ここで考えてみたことは私の中で
今回の『死の自己決定権のゆくえ』の
次のような一節に繋がっていったのだと思う。

 一つ一つのいのちが大切なのは、その個々の命が頼りも優越しているからでも、他のいのちよりも社会にとって有用や有意義だったりするからでもなく、ひとつひとつの命がすべて私たち一人ひとりの存在をはるかに超えた大きな「いのち」とつながり、その中に包まれて、また同時にその「いのち」を自らのうちに包み込んで、そこにあるがゆえに大切なのだ、と思う。それが「尊厳」ということではないのだろうか。だからこそ、一つの命がすでにその身体を去っているとしても、私たちは亡骸や遺骨の尊厳に対して首を垂れ、手を合わせるのだろう。
(p.200)


田中氏の言う「贈りあえるものとしての尊厳」ということを
私もこのもう一歩先に踏み出す方向として考えてみたいな、と思うし、

こういうことを考えている人がこうしてちゃんといてくれて、
それぞれの言葉で言っているということ、

そして田中氏の言葉で言えば、
生命倫理=バイオエシックス」の「知的な貧しさ」を暴きながら
「生政治=バイオポリティックス」に「箍をはめ」ようと
している人たちが、こうしてちゃんといてくださること、

それを誰かが私に知らせてくれるかのように
ほんの数日の間に集中的に起きた、こうした偶然の連なりが、

どれもこれも嬉しい出来事だった。