人はどのような存在なのか (meaningful life って……?)

11月26日に
鳥取大学医学部大学院の安藤泰至先生の「生命倫理学特論」という講義に
お招きいただいて、1時間と少し、お話させていただきました。
(「しゃべったこと」として一応「書いたもの」の書庫に)

今年は初回と最後の5回目が安藤先生で、
2回目が金森修先生、3回目が土井健司先生ときて、4回目が私。

このお話をいただいた去年
届いたメールを読み進むにつれて色を失い、
「私は学者ではないので、とてもこんなところには」と断るしかない、と考えていたら、
メールの最後に「学者でも研究者でもないからというのは断る理由にはなりません」
みたいなことが先回りして書かれていて、断る道をふさがれ、断る勢いもそがれて、

やむなく、初回から米子に通って全部の講義を聴講させていただいて
たいへん贅沢な勉強をさせてもらいつつ、準備をすることに。

そして、ついに自分の回がやってきてしまいました。

前半は、アシュリー事件のことと
拙著『死の自己決定権のゆくえ』の内容を簡単に取りまとめたような話で、
その後、最後に「人はどのような存在なのか」という項目立てで、
だいたい以下のようなお話をさせていただきました。

……と、アシュリー事件との出会いからこれまでに私がニュースで読んできた世界の出来事のごく一部を駆け足で振り返ってみたわけなんですけど、私にはやっぱり今、世界がとても恐ろしい場所になろうとしている、という生々しい感じがあります。そこにはいろんな恐ろしさがあって、これがまたそれぞれに繋がりあってもいると思うんですけど、そのあたりのことをしゃべっていると皆さん明日も明後日も帰らせてもらえなくなるので、ここでは前回の土井先生のお話にも通じていく問題として、人はどのような存在なのか、ということを考えてみたいと思います。

(前回の土井先生のお話は「トニー・ブランドの本当の悲劇とは何か」)

パーソン論や科学とテクノで簡単解決バンザイ文化の擁護論を説く人たちのいうことを聞いていると、私は一人ひとりの人間が単に能力とか機能の総和として、バラバラに存在する個体として捉えられていて、そのバラバラの個体の能力を高くすれば、それだけその個体がハッピーになれるみたいな、ものすごく浅薄な人間観を感じるんです。でも、人はもっと関係的な存在なんじゃないでしょうか。様々な人といろんな関係をきり結んで、その関係性の中から生じてくる「私にとってかけがえのないあなた」「あなたにとってかけがえのない私」という「かけがえのなさ」を生きている存在なんじゃないでしょうか。

かけがえがないというのは取替えがきかないということですから、誰かが憎くて憎くてたまらないというのだって、それもまたその人が自分にとってかけがえがない存在だということです。土井先生もおっしゃっていましたけど、愛の反対は憎しみではなくて無関心。愛と憎しみというのは相手と強烈に繋がっている。だから愛の反対は無関心なんですね。無関心は相手との繋がりが切れている。

土井先生が、ホフマン判事の目に見えたブランドの姿と、ブランドを大事に思う人の目に見えるであろうブランドの姿を対比させてみられたのも、人はこうした関係性を生きる存在だということを言われたんだと私は聞きました。先ほど「無益な治療」論のところで、病院側と家族の間に対立が起きた訴訟をいくつか挙げましたが、そうした事例で最も大きな対立点となるのが実はこの関係性による見え方の違いなんです。医師らは「この人はどうせもう何も分からないし意識がない、もう元には戻らないから治療は無益」というんだけれど、家族から見れば「いや、でも反応があるんです、この人は分かっているんです、だから治療を続行してください」といって抵抗する。日本で植物状態だと診断された人の家族もそういうことをよく言われます。でも、まずもって家族のこうした訴えは医師からは相手にされません。ただの反射に家族が過剰な意味づけをしているんだとか、現実を認めたくない家族が自分たちの見たいものを見ているだけだとか言われて、相手にしてもらえません。

でも、本当に医学や科学はそれほど絶対なんでしょうか。今の医学で植物状態の人の意識状態をアセスメントする方法というのは、外部から刺激を与えて、それに対する反応を見るという方法に過ぎない。刺激を受け止めていたとしても、反応して見せられる表出能力のところが障害されていたら、その人は意識があってもないことになってしまう。

安藤先生のお話の中にも出てきましたけど、実は脳死植物状態と診断された人の中に、家族の抵抗によって実は意識があったことが明らかになったという事例がかなりでてきています。その中にはほぼ完全回復した例もあります。一番有名なのはザック・ダンラップさん。この人は脳死だといわれて臓器提供が決まり、臓器の摘出チームがヘリコプターで病院に向かっていたんです。家族が最後のお別れに集まった時に、看護師の従兄弟がためしにと思って足の裏をナイフでなぞった、まぁ切ってみたんでしょうね。そしたら飛び上がった。48日後に退院して、数年後にほぼ完全回復したダンラップはテレビに出て、医師が自分の死亡宣告をするのを聞いていたと語りました。この映像は今でもインターネットで見ることができます。

クリス・コックスさんは植物状態と診断されて1月後には見舞いに来る友人を判別できるようになっていた。見舞いに来た友人にずらっと並んでもらって、名前を言うとクリスはその人をちゃんと見る。それから指も動かせるようになっていた。でも、それをお母さんが医師に報告して再検査を頼んでも、それは家族が現実否認しているんだといって相手にしてもらえない。でもこの医師は病室の入り口で「クリス!」と呼んでは「ああ、今日も反応はないな」と帰っていく。だからお母さんがある日力づくで引っ張り込んで、クリスに先生の動きを目で負わせた。指を動かせるのも見せた。それで医師が仰天して、診断が最小意識状態に覆った。そういうケースです。

英国のソープさんも脳死と診断されたけど、家族が納得せず、臓器提供なんてとんでもない、それよりもセカンドオピニオンを、と求め続けたんですね。そして外部の医師に診察してもらったら、どうも違う、と。この人はなんと薬で意識を完全に落としたまま意識状態を検査されていたんです。それで鎮静を解いてみたら、みるみる意識を回復した。この人も数年後にはほぼ完全回復しています。

それから、これも安藤先生のお話にも出てきましたが、ケンブリッジからカナダの大学に移った脳神経科医でエイドリアン・オウェンという人が、脳画像を使って植物状態と診断された人とコミュニケーションを図る研究を、もうずいぶん前からしています。イエスだったらテニスをしているところ、ノーだったら家の中を歩いているところを思い描いてもらう、という形で質問に答えてもらうと、植物状態とか最小意識状態と診断された人の中に思考力も記憶力も保っている人がいることがわかった。今年8月の論文でオウェンらは4割に誤診の可能性があると書いています。

土井先生の回に私たちが資料を読んだトニー・ブランドは、サッカーの競技場での将棋倒し事故で怪我をして植物状態になったんでしたね。ヒルズボロの悲劇と言われる英国サッカー史上最悪の事故ですが、実はこの事故では、同じように怪我をして植物状態になった人がブランドの他にもう一人いました。アンドリュー・ディヴァインという人です。ブランドが栄養と水分を引きあげられて死んだ翌年にはディヴァインの方は目でものを追うようになっている。その3年後にはYES-NOのコミュニケーションが可能となった。土井先生はブランドの本当の悲劇は、ホフマン判事とは別の経験をしてくれる人がいなかったことだといわれましたが、ディヴァインのほうにはその「別の経験」をしてくれる人がいた。同じ事故にあって同じように植物状態と診断されたけれど、まったく正反対の転機をたどった、この2人の物語はとても示唆的な感じがしないでしょうか。

それでも私たちはピーター・シンガーがブランド訴訟について書いたものを読むと、理路整然としていると思うし、それに説得されてしまう。それは私たちにとってブランドという人がただの名前に過ぎない、単なる抽象的な存在だから頭で割り切れるからじゃないでしょうか。同じように、ブロンドとのつながりが切れているホフマン判事はブランドについて頭で割り切ることができる。でも、ディヴァインの家族があの文章を読んだら、どうでしょうか。納得できるでしょうか。私はできないと思います。ディヴァインの家族にとっては、ディヴァインはただの名前ではなくて、血が通った温かい体をして、息をして目の前で生きている愛おしい息子であり兄弟なんです。そういう人のことは頭で割り切ることができない。だから納得できない。

私たちは「自分がそういう状態になったら」、「家族がそういう状態になったときには」と頭で想像してみては「どうしたい」とか「こうしてほしい」と考えますけど、その時に私たちが頭に描いているつもりの「そうなった自分」「そうなった家族」というのは、どれほどリアリティのある存在なんでしょうか。実は単なる抽象的な想像に過ぎなくて、だから私たちは頭で割り切れたつもりになっているだけで、実際にそうなった時には全然違って、頭では割り切れないものなんじゃないでしょうか。

ブランドについてピーター・シンガーは1994年に「生物学上の意味でのみ人命であるような生命」と書きましたが、その約5年後に彼のお母さんは認知症で亡くなっている。認知症の末期で意識状態が定かでない人は彼の持論で言えばノンパーソンであり、そういう人への医療は資源の無駄遣いであるはずなのだけれど、彼は医療を最後まで拒否しなかった。資料で読んできてもらったように、それをとやかく言われて彼はインタビューで「自分の母親になると話が違う」と言っていますね。「話が違う」というのは、自分の母親ということになると頭では割り切れなかったということじゃないでしょうか。シンガーにとっても、自分の母親が認知症になったときには、目の前にいるのは「認知症患者」でも「ノンパーソンで」もなく「かけがえのない私のおかあさん」だった。

「私にとって大切な人」のことは、人は誰も頭で割り切ることなんかできないんだと思います。

この中に、自分は恋人のことをなんでこんなにも好きなのか、合理的に説明することができるといわれる人はありますか? よく「優しいから」とか「気がつくから」とか好きなところを説明する人がいますけど、そんなの本当は理由じゃないですよね。少なくともそれだけじゃない。だって人を好きになるのは頭じゃない、こんなヤツ嫌だ、嫌いだ、と思いながら好きになったんだから仕方がないんですよね。理由が説明できる恋心なんて、タカが知れている。

最近は、男と女が惹かれ合うカラクリは遺伝子とか脳科学で説明がつくみたいに言われていますけど、私はそれもエセ科学だと思うけど、仮にそこまでは説明できるとしても、自分にとってそれがAさんでもBさんでもなくて、なぜこの人なのか、というのは科学がどんなに発達したって説明がつかないんじゃないかと思うんですよ。でも、そんな理屈ではどうにも説明がつかない気持ちに私たちは振り回されて、悶々として夜も眠れなくなったりご飯も食べられないほど思いつめたりする。後で考えたら真っ赤になるほどバカなことをしでかしてしまったりする。頭の中には互いに矛盾する気持ちがいっぱいあって、その間で引き裂かれて頭の中がしっちゃかめっちゃかになって、言葉にならない思いに絶句する。

そんな時、私たちは大切な人との間では目と目で語り合う、ということをしていないでしょうか。大切な人とは、手を触れ体を触れ合うことで心を通わせていないでしょうか。そこにある通い合いというのはとても大切なものだと思うのだけれど、それを科学や論理で証明することができるでしょうか。では、その心の通い合いは科学的に説明できなかったら、存在しないものなんでしょうか。合理で説明できない思いというのが私たちの中には沢山あるけれど、そんな思いは科学や合理で証明できないならば「意味がない」ものなのでしょうか。

英語圏生命倫理学では、重い障害のある子どもが生まれると、その子が「meaningful lifeを送れるかどうか」を議論します。それが、その子どもを救命するかどうかを決めるスタンダードの一つになっている。でも、じゃぁ、meaningful lifeって、一体なんなんでしょう? 個体としてのその人がどういう状態にあるかが、その人の生きる生がmeaningfulかどうかを本当に決めるのでしょうか。

これ、ウチの娘の写真なんですけど、ちょっと回してもらえますか。ちょっと見栄を張って、実物より可愛く写っている写真を持ってきました。

ウチの娘は寝たきりで全介助で「ハ」以外の言葉を持ちません。「ハ」は「はい」の意味で、元気よく「ハ!」と言ったり、いかにも渋々「はー」と嫌そうに言う場合もあったり、たいへんカラフルですし、NOの時には「ろくろっくび」になります。デパートなんかに連れて行って「この服どう?」というと、ろくろっくびになって「嫌だ嫌だ、そんなの着れない」ぶるぶるぶる……みたいな。そんなふうにYESの「ハ」以外に言葉を持たない娘とのコミュニケーションというのは、言葉や論理を超えて、身体感覚や存在そのものの次元で伝えあい分かりあい繋がりあう、とても濃密なコミュニケーションになります。さっき私が皆さんに問いかけたような恋人同士のような親密さと言ってもいい。

でも、そこにある気持ちの通い合いは科学で証明することはできないし、説明することそのものがたいへん難しいです。それで、今回の本にはブログから抜いた「ぱんぷきんすーぷ」「ポテト」という2つの文章をコラムとして入れてみました。皆さんに読んできてもらった文献の終わりの方にあったと思います。娘がどのような人として生きてそこに在るのか、説明することができないなら描くことによって伝えることができないかと思って、ブログでずっと書いてきたものです。

娘は親とだけじゃなく周囲のいろんな人とこんなふうに関わりながら、日々を彼女なりに生き生きと生きてそこに在るんだけれど、でも日ごろの彼女を知らない人がぱっと見ると「どうせ何も分からない人」と思われてしまう。日本の植物状態の定義にも当てはまってしまいます。では、ここにこういうふうに生きて在る一人の人の生は「meaningfulではない」のでしょうか。

私は、人が一人生きているということは、それ自体がすでに多くの人との関わりの中に在るということだと思っています。

最初にお話した「今ここ」の話に戻るんですけど、誰かの人生で何かが起こるというのは、そこにはその人のそれまでの人生に起こった出来事、出会った人、関わった人がみんな連なりあっていて、いわば無数の偶然の連なりの先っぽに、その連なりのもたらす必然のようにしてあるのが「今ここ」なんですよね。もしもその中の出来事の1つでも現実に起こったことと違っていたら、「今ここ」は起こらなかったかもしれない。

だから、人はいったん誰かと出会ってしまったら、もうその人とは出会わなかったことにはできないんだと思うんですよ。いま私が皆さんと共有している「今ここ」があった以上、私の人生はこの「今ここ」がなかった人生にはもう二度と戻らない。皆さんも今日こうして私と出会い、私を通じて私の娘の存在と出会ってくださったのだから、もちろん記憶からは消えてしまうかもしれないけれど、それでも皆さんの人生も「今ここ」がなかった人生には戻らない。

人の人生がそういうふうに形作られていくものであるとしたら、あなたが生きてそこに在ることによって、あなたが知らないところで誰かの人生で何かが変わっている。誰かの人生で何かが起こっている。人というのはそういう存在なんじゃないでしょうか。

人が一人生きてあるということは、それ自体が人とのかかわりの中にある。だから誰の生もmeaningfulだし、誰の命もがかけがえがないんだと私は思います。

少なくともそう思える世の中であってほしいし、そんなふうに一緒に願ってくれる人が一人でも沢山いてくれれば、「生きてもよい人」と「生きてはならない人」とを線引きするような世の中にはならないのでは、と思っています。


首尾は決して自分としては満足できるものではなかったけれど、

学生さんたちからは「よくぞここまで受け止めてくださって」とお礼を言いたくなるような
的を突いた質問とコメントをいただいて、本当に嬉しかった。
学生さんたち、すばらしかったです。

ありがとうございました。