セーター

先週、片づけものをしていた夫が
珍しく声を弾ませて「こんなものが出てきたよ」と言い、
タツの上に広げて見せてくれたのは、

小さな白いセーター。

「うわ~。これ、捨てずにとってあったんじゃ~」
「な~つかし~」

たぶん海が小学校に上がる前後くらいに
父と母が共同制作したもの。

ただの丸首の白いセーターなのだけれど、
左の袖にピンクの筆記体で Umi と編みこんである。

この Umi の部分を
グラフ用紙に網目の数を計算しつつデザインしたのが父。

その通りに
ピンクの毛糸を編み込んだのが母。

我ら夫婦の自慢の共同作品なんである。

私にしては珍しくきれいに編めたし、
袖のピンクの Umi も可愛らしいアクセントで、
そりゃぁ当時は得意になって何度も着せたもんでしたよ。

タツの上に広げたセーターの身頃の上に
左袖を折り重ねてみる。Umi がちゃんと見えるように。

そして、ちょっと離れたところから
しみじみ懐かしく眺めてみる。

「それにしても、ちっさ~」
「海って、こんなにちっこかったんじゃ~」

このセーターを着て、
ギャハハーと騒々しい笑顔を見せていた頃の
幼くちっこかった海を、夫婦それぞれに頭によみがえらせている。

遠い遠い日々から、
幼かった海が今ここに戻ってきたみたいに。

セーターの小ささ、その日々の遠さが、愛おしい。

そういえば、もう一枚、
黄色いセーターも編んだよね。
ほら、胸に白い編み込み模様の入ったやつ。

うん。あった、あった。
あれもよく着せたよねー。

なんだか不思議な気がしてくる。

あの頃、海は病気ばかりして、
私たちの生活には余裕のカケラもなく、しんどいことばかりだったのに、
そんな日々にも、海にセーターを編んでやる余裕があったということが。

夫婦でセーターの袖に Umi と入れる方法を考える遊び心が
そういう日々の中でも失われずにいたのだということが。

人間って、案外に強いものなんだなぁ、と
今さらのように、気づかされる。

ねぇ、週末に帰ってきたら海に見せちゃろーや。
覚えとるかね、このセーターのこと。
覚えとっても「それで?」みたいな顔をするよ、きっと。
まぁ、娘の方はそんなもんじゃろーよ。


週末、帰ってきた海に、
「ねぇ、こんなのが出てきたんよ」と
取り出して見せると、

海は「あら」という顔をした。

「わ、覚えとったん?」
「ハ」

その顔はちゃんと覚えていて、
母が広げて見せたセーターをちゃんと懐かんでいた。

そして、
そこに浮かんでいるのはギャハハ―ではなく、
26歳の静かな笑みだった。