トリソミー13、18の新生児の救命について、Janvierらの新論文を読む

前のエントリーで紹介したJanvierらの論文を
いつもお世話になっているkar*_*n28さんがゲットしてくださったので
早速に読んでみました。

やはり思ったとおり、
「無益な治療」論が医療職の中にある障害への予見を体現する形で
障害像によって包括的に命を切り捨てる方向に向かっていることを懸念し、
医療の意思決定とは本来常に個別検討であり、患者個々に応じたアプローチをすべきだと
このところ私も個人的に考えていた方向性にズバリの論旨でした。

以下のエントリーで取り上げている2012年の論文が何度も言及されています。


特に興味深い論点を中心に、ざっとした内容を。

・トリソミー13、トリソミー18(T13 /18)の新生児は
1歳を超えて生存する確率が6-12%といわれ、
各種の指針も新生児の蘇生を勧めない方向を打ち出しているが、

上記2012年のJanvierらの論文その他に見られるように、
 トリソミー13、トリソミー18(T13 /18)の子どもに
救命措置を行った場合のアウトカムも、その後のQOLも実際には多様。

(米国とは対応の異なる日本では
1年以上生存率は56%に上るとの報告もある、とも)

したがって、ネルソンらが12年の論文で言っているように、
「T13/18の診断を一律に“致死的(lethal)”と称することは適切ではない」


・にもかかわらず、重症障害のある生を価値の低いものとみなす医療職の価値意識が
親への説明姿勢にも、最善の利益検討にも影響している。

・この後、著者らの論理展開は、
高齢者や成人障害者には資源利用を認めているのに
重症障害のある新生児には認めないのはおかしい、という方向に進むように見え、

障害のある子どもたちの生に「価値がある」ということを
「証明しなければならない」かのような議論そのものが筋違いだと考えている私は
ちょっと抵抗を感じたし、論文タイトルの「障害のある短い生の価値」という文言に感じていた
違和感がとても強くなった。

ただ、この後で、
「我々はどのような社会に住みたいと望むのか」という小見出し
著者らが、T13/18の子どもたちによって生活が豊かになり、
兄弟たちにも良い影響があったと親たちが述べていることに触れて、
以下のように書いているところは、思わず心地よく大笑いしながら拍手喝采

論文著者の中には薬によって道徳エンハンスメントを提唱する者もあるが、
我々が見てきたところでは、これらの子どもたちの弱く短い人生は
彼らを愛する人々に良い影響を与え、社会を道徳的にエンハンスしている。


もちろん、提唱する著者らの注に挙げられているのは
サヴレスキュらの論文。

サヴレスキュらの道徳エンハンスメントについては
こちらに ⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/66636016.html

実際、薬や脳科学で道徳エンハンスメントをしようと説いている学者ら自身が
一方で功利主義的な議論によって弱者の切り捨て、資源としての利用を説くことによって
社会を不寛容へと誘導し、その空気を荒ませていることの皮肉については、
私自身も強く感じてきた点。


・著者らがこの後で書いているのは
生き方や選択の多様性を認める社会の豊かさの重要性。

(ここは賛同するけど、できることなら、そのことを
「障害のある生の価値」という視点を持ち込むことなしに
訴えてもらいたかったなぁ、という感じはある)


・後半に著者らが指摘しているポイントの一つは
 T13/18を一律に「致死的な病気」と捉えて命を見限ってしまう姿勢のために
 逆にT13/18に関する詳細な研究が行われておらず、

 手術が子どもを害する可能性と、治療しないことによって害する可能性の
 いずれが実際には大きいのかは不明だとの指摘。


・また、生存年数と重症障害だけしか見ない自分たちの視点と
 親の視点は異なっていることを医療職が理解する必要がある、との指摘も重要。

 例えば、医療職が「致死的な障害」と捉えるとそれは「致死的な決断」に繋がるので、
 医療職がどのような言葉を使って両親に話すかは実は大問題。

多くの親が
「あらゆる手を尽くす」「もうできることはない」「望みはありません」
「致死的です」「生活がなりたたなくなる」「無益」「植物状態」「この子は害になります」
「次の子どもを作ったほうが」「こうした子どもはウチのNICUでは受け入れません」
などの医療職の言葉に傷ついているし、

子どもを名前で呼ぶのではなく
「トリソミー13の子ども」といった呼び方をされることにも
親は抵抗を感じている。

医療職の多くが
「これらの親は中絶を拒否した」と言い「妊娠の継続を望んだ」とは言わないなど、
親に対して医療職が一定の方向に誘導しようとしていることは
これらの文言に見られる傾向からも明らか。


・最後のあたりで著者らが書いていることには
ちょっと胸が熱くなった。それは、例えば以下のような箇所。

常になにがしか、私たちにできることはある。……(治療が量的には無益だとしても)こうした悲劇的な時にも私たちは常に家族を支えるためにそばにいてあげることができる。子どもの痛みや不快にできる限りの対応をすると約束することができるし、お子さんにとって一番大切なことは愛してくれるご両親がいることなんですよ、と親に伝えることもできる。……(もちろん非現実的な希望を与えてはならないにせよ)私たちには、お子さんが可能な限り最善の生を送ることができるように力を尽くしますと約束することができる。


重い障害のある子どもの治療を巡って大きな決断をしなければならないとき、
親にとっては医療職との間に信頼関係があることが最も重要なこと。

An attitude and language of universal futility and lethality for these conditions has unfortunately created many conflicts.

T13/18だというと一律にすぐに死んでしまうから治療は無益だとする姿勢と、そうした姿勢に基づくものの言い方が、不幸にも多くの対立を生んできた。


・したがって、これらを改めることが必要だというのが著者らの結論。

When we truly individualise and personalize our approach, we can contribute to the well-being of the family and child.

私たち医療職が真に個別の患者中心のアプローチを取ってこそ、私たちは家族と子どものウェル・ビーングに寄与することができるのである。


この論文が説いている方行性は
高齢者や重症障害者に関する治療の差し控えや中止も含め、
総じて『無益な治療』判断に関して言えることなのでは、と思う。

つまり、直前エントリーで書いたように、

「無益な治療」論は
障害像や年齢による包括的な判断での患者の切捨てに向かっているけれど、
本来は、医療を巡る意思決定とは常に個別検討であるべきだ、ということ。

そして、そう、今回の拙著で私も及ばずながら指摘したように、
本当の問題のありかは医療の文化風土に根づいている障害に対する否定的な見方であり、
いってみれば「暗黙のパーソン論」なのだ、ということ。