染色体異常と「無益な治療」論&『運命の子 トリソミー』を読む

染色体異常と「無益な治療」論

 昨年11月3日に行われた医療的ケアを必要とする児者の地域生活支援を巡るシンポで、ちょっと気になる話を耳にした。全く別の2つの報告の中で、「トリソミーの子は短命なので手術はしません、と親が医師から告げられた」と、偶然に全く同じエピソードが語られたのである。

トリソミーとは、本来は2本の染色体が3本ある状態のことをいう。昨今話題になっている新型出生前遺伝子診断で一定の精度で分かるとされているのが、それぞれ13番、18番、21番染色体が3本ある13トリソミー、18トリソミーと21トリソミーの3つ。21トリソミーがダウン症だということは比較的知られているが、他の2つの染色体異常はあまり知られていないかもしれない。これらはダウン症とは全く異なった疾患である。複雑な奇形を伴い、1歳を超えて生きる子は10%と言われている。そのシンポで話題になっていたのは、こちらの13トリソミーと18トリソミー(以下、13/18トリソミー)のことだ。

 その2つのエピソードが気になったのは、英語圏の医療現場を中心に広がる「無益な治療」論について、私には「本来は特定の患者について固有の症状と固有の状況の中で個別に検討すべき医療判断を、障害像や病名や年齢による包括的な一律の判断に変えてしまう懸念はないのだろうか」という疑問があったためだ。果たしてその2例で言われたのは「13/18トリソミーだから手術はしません」だったのか、「このトリソミーの子は手術しません」だったのか……。

もう一つ、気になった理由がある。2011年に発表された論文で、13トリソミーの新生児、ダニエル君への心臓手術をめぐってイェール大学病院倫理委員会が詳細な議論を尽くし、手術を実施したケースが報告されていたのだ(Journal of Perinatology掲載)。

同論文は倫理委での手術を巡る利益対リスクの比較考量を中心とした粘り強い検討過程を報告していた。そこで印象的だったのは、「短命なのは、そもそも治療しないためではないか」という疑問が出たこと。改めてデータを調べてみると、治療によって延命が可能なケースもあると思われたという。また、議論の過程で「公平な医療の分配という点からどうか。他に回せば、より多くの子どもの命を救えるのでは」と、重症障害のために短命だと分かっている子どもに使われる医療コストへの疑問が呈されたのに対して、倫理委は「医療判断は通常、本人のニーズと利益によるもの。この患者にだけ別基準を適応するのは公平ではない」と結論していた。手術を受けたダニエル君は、論文発表時4歳で、家で暮らしていた。

カナダ、モントリオール大の新生児科医、アニー・ジャンヴィエらも昨年発表した論文で、著者らの研究データから13/18トリソミーの子どもを救命した場合のアウトカムもその後のQOLも実際には多様であることを指摘している(Acta Paediatrics誌掲載)。ジャンヴィエらは12年にもPediatrics誌に発表した論文で、親の会のメンバー332人に調査を行ったところ、回答者の97%が医師から告げられた予後予測とは異なって、子どもとの生活はその長さを問わず幸福で報いの多い時間だったと解答した、と報告している。

(誌面では12年の論文について「同誌に掲載された」となっていますが、
こちらは別の雑誌で、Pediatricsの誤りです。)

その論文では「医師と親とではQOLとは何かという点で考え方が違う可能性」が指摘されたが、昨年の論文でも、親の視点は医療職の視点と異なっていることを医療職は理解する必要がある、と重ねて主張した。ジャンビエらは、一律に「致命的な病気」と捉えて命を見限ってしまうために却って病態の詳細な研究が進んでいないと指摘し、生存年数と重症障害だけしか見ない視点と親の視点とのズレこそが不幸な対立を生んできた要因でもあるとして、親への対応を含めて13/18トリソミーへのアプローチを考え直すべきだと提言。そして最後に以下のように書いた。

「常になにがしか、私たちにできることはある。……(中略)……子どもの痛みや不快にできる限りの対応をすると約束することができるし……(中略)……(もちろん非現実的な希望を与えてはならないにせよ)お子さんが可能な限り最善の生を送ることができるように力を尽くしますと約束することができる」「私たち医療職が真に個別の患者中心のアプローチを取ってこそ、私たちは家族と子どものウェル・ビーングに寄与することができるのである」

 この論文ではとても興味深いことに、日本では対応が異なるため1年以上生存率が56%に上るとの報告があると紹介されている。そういえば冒頭のシンポでは、手術を受けなかった子どもたちがそれでも無事に退院して家族と暮らしている姿が、その地域生活を医療と福祉で支える人たちの活動とともに報告されていた。2歳の誕生日を迎えた女の子の笑顔が、愛くるしかった。

『運命の子 トリソミー』を読む

 昨年12月末に発刊された松永正訓著『運命の子 トリソミー:短命という定めの男の子を授かった家族の物語』(小学館)は、まさにそのトリソミーをめぐる物語。2013年度の第20回小学館ノンフィクション大賞受賞作品である。

著者は小児科医。(小児外科医、の誤りです。訂正し、お詫びします。松永先生、本当にごめんなさい)総合病院で長年勤務した後で開業し、診療やがんを克服した子どもたちの支援活動のかたわら、いのちの尊厳や出生前診断などをテーマに数々の著作を発表している。

著者には勤務医時代に、トリソミーの新生児の治療を手控える時代背景の中、「一度だけ赤ちゃんの命を見放した経験」がある。その「罪悪感」を「手に貼り付」けた著者は、開業後、朝陽君(当時生後7ヶ月)という13トリソミーの赤ちゃんの退院に際して地域での主治医となり、かつての問いに再び直面する。『短命』という定めの子どもを育てる家族は、どのような幸せを手にすることができるのか――。

この問いと正面から向かい合おうとする著者は、朝陽君一家との関わりを深め、兄弟や祖父母を含めた家族の話をていねいに聞きながら、他にも短命とされる子どもと暮らす親たちを訪ねては話を聞いて歩く。心身障がい者ワークホームを訪ねて「老老介護」を巡る母親たちの思いを聞き、18トリソミーの赤ちゃんに何度も手術をした小児外科医の話も聞きにゆく。

この本で何よりも心を打たれるのは、簡単に答えを出そうとせず、知るべきことを知ろうと努力を重ね、自らとも向かい合いながら考え続ける著者の真摯な姿勢だ。繊細な感性と誠実な思索が、圧倒的な力で読者を著者と同じ旅路にいざなう。

著者はあとがきで、朝陽君と両親との出会いの直後に「朝陽君の周辺にいる人間の中で13トリソミーという障害に対して最も偏見を抱いているのは、医師たる自分自身ではないかと疑い始めた」と書いている。朝陽君が彼なりに成長していく姿と著者との“出会い”が印象的だ。入浴やマッサージに「ほっこり」するなど、表情や反応があると家族から聞いてもはじめは半信半疑のように見える著者は、一家の生活に触れていくうち「朝陽君の潜在能力には、私が思っていた以上に精神発達の余力がある」と気づいていく。やがて1年経った頃、朝陽君が手の動きで自ら吸引を求める場に居合わせた著者はついに「ほっこり」に出会う。そして確信を持って両親と同じ事実を共有するのだ。「しっかり成長していますね、朝陽君」と。

著者が長い旅路を経て出した答えの一つは、例えば、あとがきの以下の下りにあるのかもしれない。「(家族は)長い時間をかけて、受け入れたり反発したりしながら、徐々に前へ進んでいく。医療関係者はそのことを知らなければならない」「医療・福祉・教育の関係者たち、あるいは友人や親戚・近隣の人たちと共に生きていくと決めることが、家族の新たな出発となる。その手助けを医療の面で実践していくことが、医者にとっての生命倫理であろう」そうした支援を担おうとする医師が全国各地に出てきてもいるそうだ。

もう一つ、第13章に詳しく描かれている、誕生死した18トリソミーの赤ちゃんとそのお母さんに温かく寄り添った、ある病院の細やかなケア――。それもまた、“いのち”とどのように向き合うかいう、より大きな問いに著者がたどり着いた答えなのだと思う。

新型出生前遺伝子診断について考える人に、ぜひ読んでほしい1冊である。

「世界の介護と医療の情報を読む」第93回
介護保険情報』2014年3月号