『運命の子 トリソミー』の松永医師インタビュー

『運命の子 トリソミー 短命という定めの男の子を授かった家族の物語』小学館)の著者
松永正訓医師のインタビューが、ハッフィントン・ポストに掲載されています。



当ブログの関連エントリーは以下の5本。




朝陽くんとご家族については
上のエントリーですでに紹介しているので、

それ以外で、インタビューで特に印象的だった箇所を。


「大風呂敷を広げるようなのですが、障害児を抱えるということは、障害児が生まれた家庭だけの問題ではありません。そういう子どもが生まれたら、ご家族にとってはすごく不条理に感じる。実際、介護はすごく大変ですから、障害児を育てる母親の苦労は、普通の母親とは桁違いです。不条理の苦しみ以外の何者でもない」

「でも、よく考えてみると、人って人生の中で、そういうわけのわからない不条理な苦しみに遭うことがある。対人関係でもそうだし、仕事のことでも、家庭内のことでも、どうしてこんなに不条理を抱えるのか。そういう時、新しい価値観を構築することでしか、克服することができない。障害児の家庭だけに限らず、人は生きていく上で苦しいことを受け入れて乗り越え、いま自分が置かれている状況に承認を与えてその世界で生きていく。人生って、そういうもんじゃないかなと僕は思っています」


陽くんや家族、他の障害児に関わっている人たちと話すことで、松永さんは気づいたことがある。「展利さんは、朝陽くんのここを触ればこういう反応が返ってくるとか、そういう自分の経験に基づいた知識を得ていました。それは、ネットや本の情報からでは得られないものです。最近、気づいたのですが、医者には医学知識しかないし、看護師には看護知識しかない。でも、親は親のプロなんです。障害児は障害児のプロ。プロの集団だから初めてチーム医療ができるわけです」

障害児や障害児の家族は孤立しがちだ。「でも、人間は孤立しては生きていけないし、孤立することも不可能です。人はひとりで生きられない。共生することが大事です。そういう生き方は障害をもった家族ほど、大事ですよね。たとえ、身近にそういう人たちがいなかったとしても、知ってほしいと思います。怖いのは無知です、無知が偏見を呼ぶし、偏見は人を殺すことになりかねないですから」


ここの「親は親のプロ、障害児は障害児のプロ」という箇所は、
松永先生のお話では、拙著『海のいる風景』から引っ張ってくださったとのこと。

せっかくなので、手前味噌ながら、
海がお世話になっている施設の職員研修でお話させてもらった際の講演録を掲載した
拙著の該当箇所を引っ張っておくと、

 ここにはいろんな専門家がおられますが、「療育」そのものの専門家というのはどこにもいないと思うんです。皆さんはそれぞれ医療とか福祉とか看護とかリハビリの専門家であって、決して「療育」の専門家ではないと思うんです。本人は本人であることの専門家です。例えばウチの娘は、児玉海という一人の人間として生きていることの専門家です。そして親は、その子の親であることの専門家です。
……中略…… だからこそ、お願いしたいと思います。本人と親とを療育チームの一員として位置づけてください。そして、チームのメンバーは常に対等な発言権を持ってください。

『海のいる風景 重い障害のある子どもの親であるということ』(p. 251-252)


松永医師は出生前診断について、
『運命の子』に書かれていた以上に突っ込んだ発言をしている。

出生前診断には、光と影の部分があります。一概に悪いとはいえません。出生前診断によって、赤ちゃんが持っている病気が生まれる前にわかることがある。病気がわかれば、妊婦さんに大学病院へ入院してもらい、産科と小児外科の医師があらかじめスタンバイします。帝王切開で生まれた赤ちゃんをそのまま隣のオペ室で手術をすることができるのです」

しかし、一方で松永さんは「僕は、出生前診断で陽性判断が出た場合の選択的人工妊娠中絶について、否定的な考えを持っています」とも語る。現在、簡単に検査できるとして普及している新型出生前診断に疑問を抱く。「命の選別」につながりかねないからだ。

「新型出生前診断という言葉はかっこよく聞こえますが、言い換えれば『ダウン症中絶検査法』じゃないですか。ダウン症だったら中絶したいといって検査を受ける。それは、あまりにもつらいことです。その検査を受けて、あなたの子どもは90%以上の確率でダウン症ですといわれ、さらに羊水検査を受けて確定したら、ほぼ全員が中絶に進みます」

「しかし、人工妊娠中絶がどれだけ母親にとって苦痛をともなうものか、一般の人は知らなさすぎると思います。中絶は確実に母親の心と肉体を苦しめるものです。ダウン症の子どもを生まなという生き方も苦痛でしょう。自分の子どもを中絶して幸せになれるとは思えません」


実は昨日、こういうのを知って、
そこはかとなく抵抗を引きずっている。


すばらしいビデオなんです。
心にぐっとくるんです。

でも、何かが引っかかる。

どういうところに引っかかるのか、
ここで感じた違和感にもどこか通じるのかもしれないけど ↓
「息子には納税者になって欲しい」というダウン症協会幹部?(2008/9/10)

でも、どこか微妙に違うような気もする。

出生前遺伝子診断による「命の選別」への反論として、

ダウン症の人たちの障害はそんなに重くないし
だから、こんなこともできるし、あんなことだってできるし、
だから幸せになれる……と言われてしまったら、

その「こんなこと」も「あんなこと」もできない朝陽君は……? ウチの娘は……? 
と、どうしても思ってしまう。

ここで言われていることは、
ダウン症よりも重い障害のある人たちにも言えることなのかな……? 
と、どうしてもつぶやいてしまう。

もちろんビデオが送りたかった主要なメッセージは
「あれができる」「これもできる」じゃなくて、
最後の「子も母もハッピーになれるよ」なんだけれど、
その前提に「こんなことができる」があることが引っかかる。
(なんで「母と子」なのか、というのも、実はちょっと引っかかっている)

出生前診断はこれから対象をどんどん広げていくことが不可避。それを思うと、
そこには、もうちょっと慎重に考えないといけないことがあるんじゃないのかな。

例えば、「特定の障害について、きちんと十分な知識を持ち、
その障害とともに生きている人々や家族の現実を知ることの大切さ」を訴えて、
それなしに中絶という選択肢が提示されることに対して警鐘を鳴らすことと、

「何かができるとかできないということをもちこんで命の選別が議論されること」とは、
実は別ものなんじゃないかと、きちんと気づいておく……ということとか?

「線引きの場所を変えるだけ」にならないために。



この問題について書いてきたエントリーは多数 ↓






日本で議論になってから書いたエントリーは以下。
ダウン症の新型検査をめぐって(2012/9/9)
新型出生前遺伝子診断に関する米英の動きと議論(2012/11/22)