ファーロウ事件から松永正訓『運命の子 トリソミー』へ: トリソミー13/18を巡る生命倫理 2

前のエントリーからの続きです)

③ ダニエル君の手術を巡る倫理委の議論

その他のトリソミー13/18関連エントリーとしては、
2011年のJournal of Perinatologyに掲載された
NICUでの「無益な治療」判断には倫理委を活用するよう提言した論文を読んで、
2つのケースと議論の詳細を以下から3つのエントリーに取りまとめたものがある。


私はこの当時は
アシュリー事件で倫理委が正当化のアリバイに利用されたことにこだわっていたので、
最後のエントリーでは倫理委がアリバイに使われる疑念を書いているけれど、

特に13トリソミーのダニエル君の手術を認める結論に至るまでの
議論はたいへん興味深いし、

その後の「無益な治療」論が
こうした丁寧な事例ごとの個別検討から
病気、障害像、年齢による包括的な一律の切捨てへと
方向性を捻じ曲げていこうとしている勢いに大きな懸念を抱くようになった今、
改めて考えると、障害新生児を巡る「無益な治療」判断は個別に倫理委で、という
著者らの主張はとても重要だと、痛感する。

ダニエル君のケースでの倫理委の議論については
このたびの拙著『死の自己決定権のゆくえ』でも触れた。

とりわけ「公平な医療資源の分配」という視点から
「この手術の費用を他に回せばもっと多くの子どもの命を救えるのでは」と
疑問が呈されたことに対して、倫理委が最終的に
「医療判断は本人のニーズと利益に基づいて行われており
この患者にだけ別基準を適用するのは公平ではない」と
結論したことは非常に印象的だった。

そして、そのことは、

その後、カナダのマラアクリ事件で
ピーター・シンガー「ジョセフの延命費用を途上国の子どものワクチンに使えば」という
発言を巡ってぐるぐる考え続ける中で、

こうした功利的な比較による切り捨て正当化のカラクリは、
実は救える命の数の比較そのものにあるのではなく、
その問いが持ち出される患者と病気・障害像が予め選別されているところにこそあると
気づくための大きなヒントになってくれた。

この議論は『死の自己決定権のゆくえ』の第2章の
重要な柱になったと思う。


④ 2013年11月3日の京都でのシンポ

去年11月に、京都で医療ケアネット主催のシンポにお招きいただいて、自分の出番の後、
シンポジスト(ほとんどが重症児者の地域生活支援に関わっている人)の方々の発表を聞いていたら、

別々の事例発表の中で「生まれた時に医師から、
どうせすぐに死ぬから13/18トリソミーの子には手術はしないと言われた」
というエピソードが2例、相次いで出てきたことに衝撃があった。

そこには、
医師の側から「短命だからトリソミーの子には手術はしません」と
親の側の希望や思いとは無関係に、またおそらくはその子どもに関する個別判断としてではなく
「こういう子には手術はしないことになっている」包括的な既定方針による「結論」として提示されて、
そうすると日本のパターナリズムに馴染んできた医療現場では
親の方から「手術をしてほしい」と希望してみたり、
「この子について個別検討してもらっての結論なのでしょうか」と尋ねてみるなど、
とうてい考えられもしないことなのだな……と思わせられる雰囲気があった。

2例とも
親がそのことに特に疑問を持ったり抵抗を試みたという話はなく、
(1例では、発表者の医師のトーンに、この人自身はそうした病院の姿勢に
疑問を持っておられるのではないか、とそこはかとなく感じられたけれど、)

そのために手術のような積極的な治療はしないまま、
家に連れて帰って在宅での生活を支援することになった、として
シンポの本題である支援の実際の報告へと話が移っていった。

今まで障害のある新生児の救命問題を含めて英語圏生命倫理の議論を読みかじりながら、
「無益な治療」論に対して感じてきた漠然とした疑問を
その2つのエピソードで改めて突きつけられたような気がした。

そして数日そのことを考えた後に、その疑問が改めて
頭の中でくっきりと捉えなおされてきた。

その疑問とは2つ。

一つ目は上にも書いたように、
「無益な治療」論の一番の恐ろしさは
本来は固有の患者の固有の病状について、あくまでも個別の検討であるはずの意思決定を
そうした個別判断から、病気や障害や年齢による包括的な判断へと
変質させていくことにあるのでは?

もう一つは、日本の「無益な治療」論についての疑問で、

日本では医療以外の専門職を含めた議論のプロセスをきちんと経ることもなく
それ以前に、医療を受けるための患者の自己決定権を保障するスタンダードも法整備も
意思決定能力を欠いた人の医療を巡る代理決定や最善の利益検討のスタンダードも法整備も
十分に議論されたり整備されることもないままに、

そのことに患者や家族が疑問を感じるために必要な「自己決定権」とICへの理解や
「医療を受ける主体者」としての意識を涵養する教育・啓発すらなく
(「医療を放棄して死ぬという自己決定」への誘導だけは盛んに行われているけれど)

医療現場の閉鎖性と根深いパターナリズムの中で
なんとなく、いつのまにか「そういうもの」にされていくのでは? 

次のエントリーに続きます)