松永正訓『運命の子 トリソミー 短命という定めの男の子を授かった家族の物語』 1

松永正訓 『運命の子 トリソミー 短命という定めの男の子を授かった家族の物語』
小学館 2013  (リンクから冒頭部分が試し読みできます)

2013年度 第20回小学館ノンフィクション大賞の大賞受賞作品。

まず、本書から
13/18トリソミーとその周辺について簡単に整理。

トリソミーとは染色体が3本ある状態のこと。

21番染色体が3本あるのがダウン症のことだというのはよく知られているけれど、
13番染色体が3本ある13トリソミーと、18番染色体が3本ある18トリソミー
ダウン症とはまったく異なっている。

様々な複雑な奇形を伴い、半数以上は生後1ヶ月以内に「命が果てる」。
1歳を超えて生きる子は全体の10%。

日本では1989年に「ある大学病院」の新生児科が
「新生児の治療方針の決定のためのクラス分け」を発表し、
この2つを「現在行っている以上の治療は行わず一般的養護に徹する」疾患に分類し、
それが「不幸なことに」ある種のスタンダードとなってきた。

が、2000年以降に考え方に変化が起こり、
積極的な治療によって自宅での生活が可能になった事例が報告されてきている。

これらの子どもを熱心に支援しようとする医師らも各地に出てきている。

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著者は1987年から2005年まで
千葉大学医学部付属病院の小児外科医として勤務。

上記のように
13トリソミーと18トリソミーの子には
積極的な治療は行わないことが通例だった1993年に
小児外科と新生児科の合同会議で決まった方針に従って、
「一度だけ赤ちゃんの命を見放した経験」をした。

その経験について、著者は
「チーム医療の一員としての行動とはいえ、
胃瘻を引き抜いた私の手には罪悪感が貼り付いた」
「自然死どころか、ぶつりと命綱を切られるような終わり方だった」と書く。

その後、2006年に開業医となった著者は
13トリソミーの朝陽君(当時生後7ヶ月)の総合病院からの退院に際して、
地元の主治医となることを病院から要請され、
勤務医時代に回答を見つけられないままだった問いに再び直面する。

「短命」と定まっている子どもを育てることで、
家族はどのような形の幸せを手にすることができるのであろうかと。
(p.18)


本書は、
著者が朝陽君とその家族との関わりを通じて、
その問いととことん向き合い続けて、
一つの答えに至るまでの軌跡を丁寧に描いたものだ。

その向き合い方の真摯さは生半可ではない。

朝陽君とその家族を支え、寄り添い、
両親や朝陽君のお兄ちゃんや祖父母にまで話を聞くだけでなく、

他にも、ゴーシェ病、ミラー・ディッカー症候群と
短命を宿命付けられた子どもと暮らす親を訪ね、

重症心身障害者が成長するにつれて老いてゆく子を老いた親が介護する
老老介護」の問題についても考えるべく、
心身障がい者ワークホームを訪ねて5人の母親たちの話を聞く。

その合間には、もちろん医師として関連の文献を調べては、
興味深い論文を書いた医師にも話を聞きに出かけていく。

そして
18トリソミーの子どもの誕生死を体験した夫婦にまで会いに行く。

朝陽君の変化と成長、その時々の朝陽君の家族の言葉やありよう、
それらを巡る著者自身の様々な思いや考えが丁寧に描かれていく時間軸にそって、
上記の別のケースでの聞き取りが挿入される構成になっており、
そのことが本書に大きな深みを与えている。

もちろんその深みは、
著者自身がこの間に重ねる思索の深みでもあるし、

その思索を土台骨として支えている
著者の繊細な感性、人としての深みでもある。

例えば、朝陽君と対面した場面を著者はこのように描写する。

……朝陽君の目は閉じられ、喉からはゴロゴロと痰の音がするが、顔の表情は何とも穏やかで、いわく言いがたい透明感のようなものが伝わってくる。眠りは深く、胸だけが動いている。私が握った手からは何の反応も帰ってこない。静かで慎ましやかな生命がそこに息づいていた。
(p.34)


このような朝陽君に医師としてできることは何か、と自問する著者は

……もし私が朝陽君の家族にとって、何か信頼できるような心の支えみたいなものになることができるならば、それは朝陽君を癒すことにつながるはずだ。
 私は、可能な限り朝日君の家族に寄り添いたいと思った。家族に語るべき言葉があるのならば、それを一つひとつ拾い上げていけばいい。…(中略)……そして話を聴くというのは、医者の原点であり、医療の基本である。
(p.34)


そうして、著者の
重症障害のある新生児を巡る生命倫理を考える長い旅路が始まる。

次のエントリーに続く)