松永正訓『運命の子 トリソミー 短命という定めの男の子を授かった家族の物語』 2

前のエントリーからの続きです)


朝陽君の事例で最も印象的だったのは
朝陽君が彼なりに成長していく姿と著者が“出会って”いくプロセス。

例えば、朝陽君がお風呂に入ったりマッサージしてもらうと、
脱力して気持ちよさそうな「ほっこり」した顔になるのだと
家族が語るのを初めて聞く著者は、いまだ半信半疑のように見える。

朝陽君には反応があり、彼なりの表現や表情がある、と
家族がそれぞれの言葉でそれぞれの観察を語るたび、
(またこの家族の、特にお父さんのユニークな感性と表現力がすばらしい)
多少の戸惑いと共にそれらの言葉を受け止めていると見える。

けれど、訪問の回を重ね、家族に寄り添い、
それぞれの心にあるものに触れようと対話を続ける中で、
母親と父親と人と人として出会い、繋がりながら、

「朝陽君の潜在能力の中には、
私が思っていた以上に精神発達の余力がある」ことに気づいていく。

足を動かしてモニターをはずし、
体をよじってタオルケットをはいでしまう、
指しゃぶりもすれば、ちゃんと痛みの記憶もある朝陽君という
一人の子どものありのままの姿と少しずつ出会っていったのだと思う。

そして1年経った時、
著者が父親の話を聞いている最中に朝陽君の様子が変る。

 その時、また一段と朝陽君の喉のゴロゴロが強くなった。頭を振って苦しがっている。見ると、朝陽君の左手がゆっくりと動いていく。何の動きだろう。肘を曲げて、軽く握った手を自分の口に向けている。これはまさか……。
「もしかして朝陽君、吸引してくれって言っているんですか?」
「そうですね」……
(p.156)

そこで父親が吸引するが、それでもまだ朝陽君は不機嫌なままだ。
体をくねらせ、うなる。

母親が足のモニターが不快なのだと見抜き、
父親がそれをはずしてやると、朝陽君はたちまち表情を和らげる。

……これが「ほっこり」という顔つきであろう。私はようやくその顔に会った。
「しっかり成長していますね、朝陽君」
(p.159)


ずっと前に、私は
重症障害児者に直接触れたことはもちろん、ろくに目にしたことすらないまま
「重症障害児の安楽死は正当化できるかどうか」を論じようとする生命倫理学者に
「その前に、そういう障害を持った子どものいるところへ行き、出会ってもらえませんか」と
お願いしたことがある。

「もちろん見学には行くつもりです」という答えに、
「“見に行く”のではなく、“出会って”ほしいのです」と重ねてお願いした。

このたびの拙著『死の自己決定権のゆくえ』の第2章で
「「わかっていない人」を「わかっている人」に変えるもの」という表現で
訴えたかったのも、そのことだった。

「わかっていない人」だった朝陽君が「わかっている人」に変ったのではない。

松永医師の中で、朝陽君が「わかっていない人」「成長などありえない重症児」から
「わかっている人」「自分なりにしっかり成長している子ども」に変ったのだ。

松永医師はあとがきで、以下のように書いている。

……朝陽君の周辺にいる人間の中で、13トリソミーという障害に対して最も偏見を抱いているのは、医師たる自分自身なのではないかと疑い始めた……
(p.216-7)


朝陽君やこの本に描かれている多くの子どもたちや
アシュリーや海のような人たちと「出会う」というのがどういうことか。

その一つの答えが、まぎれもなく、この本なのだと思う。

当初の問い「短命な定めの子どもを育てる家族の幸せとは何か」に
著者が出した答えは、

……(家族は)長い時間をかけて、受け入れたり反発したりしながら、徐々に前へ進んでいく。医療関係者はそのことを知らなければならない。
(P.218)

 障害新生児の家族は孤立して生きていくことはできない。また決して孤立してはいけない。医療・福祉・教育の関係者たち、あるいは友人や親戚・近隣の人たちと共に生きていくと決めることが、家族の新たな出発となる。その手助けを医療の面で実践していくことが、医者にとっての生命倫理であろう。倫理は思弁ではない。行動である。私はそういうことを学んだ。
(P.218)



第5章で
「たとえ短くても生き抜くことに価値があるのでは」と語り、
「結論を決めない」という結論に至ったという
仁科医師のインタビューにも圧倒されるほどの力があったし、

第13章がまた、すばらしかった。
わずか1時間24分の命を生きた18トリソミーの子どもを巡って、
心肺蘇生の場に母親を運び、きちんと説明したうえで
心臓マッサージ停止の許可を求めた医師や
死後にカンガルー・ケアとして母親に抱かせるだけでなく、
自分たちもかわるがわる抱っこして悼み、
きちんと沐浴をして、足型を取った看護師さんたち。

Jahi McMathさんが扁桃腺切除手術を受けた病院に、
この日本の病院の温かい配慮が、その何分の1かでもあったとしたら、
Jahiさんの家族は娘を生かし続けることに
ここまで執着しなくてもすんだのではないだろうか。

いま「無益な治療」論によって
急速に医療現場から失われていこうとしているものこそが、
13章で描かれている医療の姿勢であり、

松永医師の到達した「生命倫理」なんじゃないだろうか。

そういう時代に、
私たちの国ではこの本が書かれたことに、

心から感謝――。



ちなみに、このエントリーを書く前に
当ブログで13/18トリソミー関連で書いてきたこと、考えてきたことについて
取りまとめてみたものは、こちらから3つのエントリーに ↓
ファーロウ事件から松永正訓『運命の子 トリソミー』へ: トリソミー13/18を巡る生命倫理 1(2014/1/9)