臨床現場を医学研究の実験場に転じるLearning Healthcare Systemと、IC不要論

実は、こちらのエントリーで書いた“ぐるぐる”の関連でもあるのですが ↓
「自己決定権」と「医療の不確実性」の関係をぐるぐるしてみる 1(2014/4/22)
「自己決定権」と「医療の不確実性」の関係をぐるぐるしてみる 2(2014/4/22)


ちょっと気になる論文を読んだ。

Informed Consent, Comparative Effectiveness, and Learning Health Care
Ruth R. Faden, Ph.D., M. P. H., Tom L. Beauchamp, Ph.D., and Nancy E. Kass, Sc.D.
The New England Journal of Medicine, February 20, 2014


Learning Healthcare System(LHS)については例えば、こちら(英語)↓
http://healthaffairs.org/blog/2013/01/14/new-approaches-to-learning-in-the-learning-healthcare-system/

ちゃんと読み切れていない感じもあるのですが、
臨床現場から得られる膨大なデータを解析して
それによって、よりエビデンスに基づいた医療実践と医療システムを目指そうとする、
いってみれば医療そのものの自学自習変容システム……みたいなイメージ?

だから医療そのものが自らの実践から学び、自己変容を目指すという意味で
「学びゆく医療システム」Learning Healthcare Systemと名づけられているんだろうな、と。

そして、その一環として進められているのが、
どうやらCER(comparative effectiveness research)比較効果研究。

CER(comparative effectiveness research)とは、こちらの日本語サイトによると、

医療費の高騰を抑え,医療の質を向上させる解決策を臨床研究に求めた米国政府が、
2009年に計上された景気悪化支援策予算のうち11億ドルを割り当てた、
治療・診断・各種医療サービスの比較効果研究のこと。

冒頭のLHSについての理解だけで言えば、LHSとは
よりいっそうのEBM化を目指して「学習する」というふうにイメージされるけど、
こちらのCERと併せて考えると、どうもそれだけではなくて
「より効率的な医療と医療制度への変貌」を目指して
「医療制度が臨床現場での実践から自ら学び変る」ことがイメージされているようでもある。

で、この論文が主張していることは
すっごく簡単に言ってしまうと、

CERの中には
従来行われてきた治療方法の間の比較実験に過ぎず
ランダムにいずれかの治療に割り当てられたところで、
それによって患者に大きなリスクが生じるわけでもないものもあるから、

そういうものでは、例えば
患者を参加させた委員会で何がそういう研究に当たるかを仕分ける仕組みを作り、
一応、地域に向けて、こういう実験が行われていますよという広報をすることとし、
イヤな人はオプトアウトできる道筋さえ作っておけば、

この際、個々の患者にいちいち説明してインフォームドコンセントをとらずに
やったっていいんじゃなかろうか。


でも、その正当化のリーズニングというのが、
ほとんど「患者にも医療職にも医療と医療制度の改善に資する責務がある」とでも
いわんばかりのタカビーさであることに驚く。

まず、著者らが
LHSの責任として持ち出してくるのは、患者参加と透明性、説明責任の3つ。

それを果たすための道徳的な基盤として、著者らは
以下の7つの道徳的義務から成る「共通目的の枠組み」を提唱する。

「共通目的」というのは
医療職も患者もともにLHSに貢献しようとの姿勢を持つことが期待されており、
そこに「LHSへの貢献」という「目的」が「共有されている」と、いうことらしい。

なんとなれば、7つの道徳的義務のうち、
1~6は医療職に課せられるものだけど、7は患者に課せられる。

1. 患者の権利と尊厳を尊重せよ。
2. 臨床医の臨床判断を尊重せよ。
3. それぞれの患者に最適の治療を提供せよ。
4. 非臨床的なリスクと負担を患者に負わせることは避けよ。
5. 属性グループ間の医療格差を削減せよ。
6. 臨床医療と臨床情報からの学びを促す活動を行え。
7. 臨床医療と医療システムの質と価値を改善するという共通の目的に貢献せよ。


患者の「決定権」とはなっていないし、なんで「最適」であって「最善」じゃないのか、
臨床的なリスクは負わせてもいいのか、などなど疑問も多々あるのですが、

すごく不思議なのは5。
こんなの、医療現場が負うべき責任や義務なのかな。むしろ政治の課題なんでは?

1と2と3と4と7とを「無益な治療」論と絡めて考えたら、
どういうことになるのか。かなり怖い。

こんな一説もある。

All involved must appreciate that they are receiving care or working in an institution committed to the shared mission of continuous learning that feeds directly into improving patient care.

すべての関係者が理解し尊重しなければならない。自分たちが医療を受け、あるいは働いている医療機関は、常に学習し続けては、それをそのまま患者ケアの改善に役立てるという、(医療職と患者とに共有された)使命を担っているのだ、ということを。


ここで言われていることって、つまり、
個々の患者は単に自分のためにだけ医療を受けようなんて思うなよ、
医療をより良いものにしていくために貢献するつもりで医療を受けよ、ということですね。

あと、正当化のために持ち出されるリスクと利益の比較考量は、
基本、以下の構図になっている。

「今現在ここにいる個々の固有の患者に及ぶリスク」 vs
「その実験から取れたデータから将来の不特定多数の患者が得る可能性のある利益」

結局、
いろんな屁理屈やおためごかしを並べつつ、繰り返し、
「医療現場の皆さんは患者さんも医療職も、一人ひとり、誰もがみんな
全体のために奉仕する個であれ」……って言ってるみたいな。

でも、health care と、medical science ってな、同じではないでしょう。

医療制度は本来、社会保障制度であって、
医療(health care)とは、一人ひとりの患者さんのために提供される
医療サービスだったはずなんでは?

臨床現場の診察室にいる医師は
目の前の固有の患者さんの治療だけを念頭に医療サービスを提供するのだろうし、
その医療判断の根拠となっているのは医学から得られた知見なのだろうし、

だからこそ、冒頭でリンクした二つ目で紹介した名郷直樹医師は
目の前の患者さんに最善の医療を提供するためのEBMを提唱している。

医療(health care)をよりよいものにするために
医学研究(medical science)があり、その他医療に関わる様々な分野の研究があって
両者の間にはもちろん繋がりも重なりもあるにしても、両者は全く同じじゃない。

私は昔、医学生に向けて話をさせてもらうときには
「モザイク画」のたとえを使うことにしていた。

一人ひとりの患者さんをモザイクの1片と考えると、
医学はそれらが集まってできている大きな1枚の絵を読み解く仕事。
だけど医療は、モザイクの1片1片と向かい合い、治し癒し支える仕事。

大きな絵を読み解くための実験に
いくつかのモザイクに協力を求める必要はあるかもしれないけれど、
それは「大きな絵」の方の医学のためであり、

たとえ患者さんが「医学のために」と自ら進んで協力するにせよ、
本来の医療の不確実性に加えて、さらに余計な不確実性まで負わせることになる以上、
あくまでも患者さんの自己決定としてICが必要だったんでは?

(ここのところに、この問題が
冒頭にリンクした”ぐるぐる”の関連である所以がある)

でも、そこにこそ、
たぶんこの論文が書かれる意味があるんだろうな、という気もする。

つまり、ちょうど名郷医師の「患者のためのEBM
learning healthcare では「医療制度のためのEBMに転じているように、

この論文によって、「患者のための医療と医学」
「医学と医療システムのための患者」に転じること?

この論文を読みながら learning というケッタイな形容詞にこだわっていたら、
ぼわ~~~っと頭に浮かんできたのは、competing (競争する)という形容詞だった。

Learning Healthcare Systemとは、つまるところ、
Healthcareサービスの臨床現場をmedical scienceの実験場に転じるということであり、

5月6日のメモで拾った以下のような話題や
これに類する情報は他でもあれこれ目に付いていることを考えると、

1994年にES細胞研究に「すべり坂」懸念から反対スタンスを表明したワシントンポストが、20年経って倫理的な懸念は認めつつも、科学研究の進歩のために推進容認に転じたことについて、BioEdge。
http://www.bioedge.org/index.php/pointedremarks/view/10941


LHSのような新概念は今後おそらく、またちょっと別の文言と新概念の登場とつながって
health careの臨床現場を、グローバルな規模での competing medical science の実験場に転じよう、
ということにもなっていくんだろうな……と。


論文の著者らは、ICそのものが、
ろくな説明も無く患者が多大なリスクに晒された、かつてのスキャンダルから出てきた概念だけど、
その後、臨床実験は様変わりして、もうそういうことは起こらない時代だから、
みたいなことを言っているんだけれど、

こうやって新しい文言が登場しては概念が操作されていく、その方向性を考え、
背景にあるグローバルな科学研究の競争の激烈を思いつつ、こんな論文を読むと、

臨床実験で患者の権利が守られる時代どころか、
その熾烈な競争のためには弱い者からバイオ資材として供されていきそうな気がしてくる。

それも「そうやって医学が進歩すれば、患者の利益だから」という、おためごかしで。


【7月3日のメモから追記】
科学研究の国際競争に生き残るためには、IC条件の緩和など被験者の確保のための、なりふり構わない生命倫理の理屈付けが始まっていると感じているんだけど、今度は囚人が臨床実験に参加する「権利」ときた。
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/11036