土井健司『キリスト教を問いなおす』



土井先生のお話は昨年、お聞きする機会があって、
とても心に残っている。


ついでに、このお話に強く影響されて、
その次の会に私がお話したことは、これ ↓
人はどのような存在なのか(meaningful life って……?)(2013/11/28)


この本を読み始めてしばらく、その内容と去年のお話の内容とが
私の頭の中で最初はなかなか繋がりにくかったのだけれど、
第2章の「よきサマリア人」の譬え話あたりから
そこのところが、ぐぐーっと急速に接近していって、
あとは高まるコーフンとともに一気に読み終えた。

著者がこの「よきサマリア人」の話から
「隣人愛」のポイントとして挙げているのは以下の3点。

① 隣人愛は主体的な、自由な行為である。
② 隣人愛は「見る」ことにおいて成り立つ。一つの出逢いの中で成立する。
③ 隣人愛は、境界を越える行為である。

最初の2つはぱっと考えると分かりやすい気もするけど、
著者の解説を読むと、それほど分かりやすい浅薄なことでもない。

まず「見る」ということは、自分の「今ここ」において、
一人の人としての誰かと出逢うということであり、
隣人愛とは、そうした出逢いの中で、
おそらくは「やるべきことだから」でも「それが善だから」でもなく、
ただ、目の前にいる「あなた」を放っておけない、やむにやまれぬ思いから、
行動してしまうこと、なんじゃないだろうか。

……と自分なりの言葉で捉えてみると、それは
私自身がかつて娘の施設の職員の方々にお話したことのある、
「careという言葉のココロ」でもあると思う。

とても興味深いのは、「言葉の濫用は避けるべきでしょう」(p.91)と言って、
募金のような行為と「隣人愛」とを著者が区別していること。

それは、
「とくに愛の問題では、顔の『見える』身近な相手を愛する方が、
遠い人を愛するよりはるかに難しい」(p.91)から。

そう。身近な相手というものは、いろいろと汚なかったり醜かったり臭かったり、
一筋縄ではいかない様々に複雑に厄介な、概ね憎たらしい存在ですもん。

だからこそ、「隣人愛」とは、あくまでも
「今ここ」に、「わたし」の目の前にいる、この「あなた」に対して、
自分が「にもかかわらず」どのように行動しないでいられないか、という
ぎりぎりの選択の問題なんだ、と。

(そして、たぶん、その行動によって自分が汚れる、ということでもあって、
それを知りつつ「にもかかわらず」であることに意味があるのかもしれない。

197-198ページにかけて自己決定と自己決定権の違いについて書かれていることも
要するにこういうことなんだと思う。これは例えば
Debby Purdyさんの訴えに対して私が感じた違和感でもある)


「隣人愛」について指摘されていることは、この本の後半のキーワード
『「あなた」-「私」の関係』をめぐる思索へと展開されていくのだけれど、

その関係とは、
誰が「何者であるか」によって様々な境界で区切られた日常の中に、
(私自身の言葉で言えば)期せずして、ふいに訪れる奇跡のような瞬間のこと。

あなたが社会的に規定された「何者かとして」ではなく、
ただ素裸の一人の人である「あなた」として
そのような一人の人である「わたし」の前に立っていることを見出し、
その「あなた」と「わたし」とが素のままに触れ合えたと感じる稀有な瞬間のこと。

著者はそこには「時の恵み」というべきもの(p.178)も必要だと言う。

なぜなら、社会は様々な境界線から成り立っていて、
「われわれ」と「彼ら」が仕切られることによって
私たちは安んじて日常生活を送ることができている。
それほどに境界線とは重要なものではあるから。

だからこそ、「あなた」-「わたし」の関係は
意図したからといって起こせるものではなく、
無数の様々な要因が偶然重なった時に初めて、
やはり奇跡のように起こってくる稀有な瞬間、ということなんだろうと思う。

(そして、やはりそれは「瞬間」のような、持続不能な関係でもある。
確かに今こうして触れ合えたと喜んだ相手は、すぐにまた
越えがたい境界の向こうに戻ってしまうものだから)

だから、隣人愛は「境界を越える行為」なんだ、と。

……で、ここまでは、
まぁ、自分なりに考えてきたことと重なってもいたんだけれど、

その先、「うお――っ」というほどのコーフンと共に
この本が、これまで考えたことのない、初めての世界に連れて行ってくれたのは
「あなた」としての神(p.152)……という捉え方。

……ここで大切なのは、神であれ人間であれ、「あなた」と呼びうるような存在を知っているかどうか、ということです。そういう「あなた」を知っているからこそわたしたちは、目の前の人間を「あなた」を呼びかけることも、呼びかけられることも可能になるのです。
(p.154)


このあたり、読んでいて、自分の個人的な体験とどんどん話がつながっていって、
それで書かれていることがどんどん腑に落ちていく……という
ちょっと不思議なくらいの体験でもあった。

 日本語の「ありがたい」という言葉は、「有り難い」と表記できることからも分かるように、何かが「ある」ことが困難であるにもかかわらず、それが「ある」ことへの感謝の念を表している、と言われます。
(p. 155)


10年前に書いた『海のいる風景』という本が絶版となり、
絶版の決定を知らされたその日のうちに思いも寄らない展開で
『アシュリー事件』の版元さんからの復刊が決まってしまった時に
私はそれを人生最大の「ありえないこと」の一つだと感じた。

そして、その新刊のための準備をしている最中に、
かつて娘の施設であった「苦く辛かった闘い」に
まったく思いも寄らない「13年後の出来事」が目の前で展開していった時にも
「ありえないことが起こっている」という思いだった。

その出来事は新版『海のいる風景』の「あとがき」で書いたけど、

あれは、
13年前に「保護者」である私と、激しく対立した「園長」だったその人とが
たぶん13年かけて「わたし」と「あなた」として出会い直した……という出来事だったのだろうし、
とても稀有な奇跡のような出来事だった、と私は今でもやっぱり思う。

そして、そういう「ありえない」ことが起こる人生や、
そういう人との出会いから希望をもらってきたから、
人は土井先生がいうような意味で「あなた」を知っているし、
理不尽だらけの人生を生きていられるんだ、たぶん。

その体験が、人に、
誰かの前で、ありのままの「わたし」を解き放ってみる勇気をくれるんだ、たぶん。

そういえば、その闘いよりも、もっとずっとずっと前、
海がまだ赤ちゃんで、何度も何度も寝込んだり死にかけたり、
非常事態の嵐が永遠に続いているような日常の中で、
ふっと一人になれる、嵐の隙間のような静かな時間に、

例えば、
ロクに寝ていない疲れた体で、レントゲン写真を借り受けるために
海の入院先の総合病院からリハセンターへと車を走らせていた時などに、
私は気がつくと、運転しながら、「あなた」に向かって、
声に出して独り語りをしていた。呼びかけていた。

あの時、私は必死に助けを求めていたのだ、ということが
この本を読みながら、すとんと腑に落ちてきた。

体も気持ちも、もうとっくに限界を超えているのに、
ただ、がんばるしかない状況ばかりが果てしなく続いていた。
どうしたらいいのか、もう、どうにも分からない、
何かをきちんと考える余裕も気力なくなりそうな中で、
私は「あなた」に向かって必死に語りかけ、呼びかけていた。

そうか、あれは、私の祈りだったのだ、と。

でも、あの時、
私は「あなた」と呼びかけることの出来る人を心の中に持っていたから
それが私の救いだったのだ、と。

そう得心すると、もう25年も経っているのに
あの時に流すことができなかった涙がボロボロとこぼれてきた。

そして、この本を読みながら、
あの時に私が必死に語りかけていた「あなた」は
それぞれの時によって、過去に出会った誰か大切な「あなた」だったけれど、
あの「あなた」は実は、実在の誰かではなかったのかもしれない、とも気づいた。

すると、例えば以下のような下りが、すうっと納得できた。

……神とは、わたしたちが誰かに向かって「あなた」と呼びかける可能性を開くと同時に、「あなた」と呼びかけられるような存在なのです。このように祈りというものが、「あなた」への率直な語りかけであり、神がそれを支えているとするなら、すでにそこには神の応答が実現されていると言えるのではないでしょうか。
(p.171)


といっても、私はクリスチャンではないし、
この本を読んだくらいでキリスト教がわかったなんていうつもりもない。

ただ、私は私なりの理解として、
キリスト教の、ということではなく、もっと一般的な意味として、
神や祈りとは、もしかしたら、そのように「あなた」と出会えることへの希望であり、

それが、
善良な人でありたい、この世が善き場所であってほしい、と
人が素直に願うことのできる気持ちや意思を支える土台でもあるなんじゃないか、と
とりあえず個人的に、身体感覚レベルで腑に落ちた、ということ。

 前段でわたしは、「希望」と書きました。実はこの希望が現実化したのが、隣人愛なのです。なぜなら――繰り返しになりますが――、隣人愛とは「わたし」と「あなた」が出逢うことであり、相手を目の当たりにして心うごかされ、かかわることだからです。それこそが、現実の理不尽さを乗り越える契機となるのです。
(p.190)