小沢浩『愛することからはじめよう 小林提樹と島田療育園の歩み』



小林提樹と島田療育園については
高谷清著『重い障害を生きるということ』岩波新書)でも書かれていたので
まったく知らなかったわけではないのだけれど、

西の近江学園とびわこ学園を作った糸賀一雄と違って
東の島田療育園を作った小林提樹は医師でありながら、時代背景もあったにせよ、
医療というよりも福祉の必要、それも家族への支援という視点から、
重症心身障害児の療育環境整備に(日赤病院の部長のポストを投げ出してまで)
乗り出していったということが、とても興味深かった。

そして、最後には失意のうちに島田療育園を去り、
カルテ整理という地道な仕事によって重症児医療に関わり続けた生き方にも
とても人間的なものを感じた。

この本を読んだ直後に
直前エントリーで書いた『キリスト教を問いなおす』を読んだ際には、
提樹の以下の言葉が何度も思い返された。

この子は私である。あの子も私である。どんなに障害は重くとも、みんな、その福祉を堅く守ってあげなければ、と深く心に誓う。
(p.213)


私は知らないことが多かったので、
それらのメモを中心に、以下に。

○寿産院事件(昭和23年)

産院が新聞広告で赤ちゃんのもらい手とゆずり手を募って、
ゆずり手の親からは4000円から1万円を養育費としてもらいうけ、
もらい手からは謝礼として500円を受け取っていた。

また乳幼児用の配給品や、葬祭用に特配される酒をヤミに流して儲けていた。
赤ちゃんにはろくにミルクも与えず、泣いてうるさいと窒息させてもいた。
発覚までの4年間で204人の赤ちゃんをもらい、うち103人が死亡。
しかし、主犯格の助産婦は懲役4年。夫は2年。
この事件をきっかけに児童福祉法が出来、乳児院が作られることとなった。


しかし、当時の健康保険では
「治癒の見込みの無い病気や障害は入院治療には値しない」としており、
障害児は一般の病院では受け入れられなかった。

日赤産院にも健康保険基準局から
「医療に値しないこの子どもたちに健康保健証を使って入院することは不適である」
というお達しがあった。

結果的に、児童相談所からは障害児の受け入れ依頼が来る一方で、
健康保険局からは強制退院を迫られるという事態に。

結局、昭和30年、健康保険患児は強制退院させられて、
生活保護の幼児(多くは捨て子)だけが残る。

……この子どもたちにも健康保険が適用されているため、健康保険基準局は「入院」に適するかどうか詰問してきた。提樹は、これについては断じて譲ることができなかった。この子たちに行き場はない。それなのに法律だから退院を促すという役人にとって、この子たちの行き先はどうでもよかったのである。命はどうでもよかったのである。
(p.54)


昭和35年、島田療育園建設工事が始まって、国との予算交渉が始まる。

 交渉の場で国からは、「障害が重くて社会の役に立たないものには国の予算は使えません」という言葉が返ってきた。
(p.103)


水上勉が昭和38年に『中央公論』に書いた「拝啓池田総理大臣殿」への返答として
内閣官房長官黒金泰美が同誌に書いた「拝復水上勉様」の中に以下の一説がある。

 さらに遡って考えますと、不幸な子供たちが生まれたのち、その療育に力をつくす以前に、不幸な子供たちが生まれないように、健全な母体を育て、妊娠中の保養に務め、これを立派に育て上げていくことこそ必要なのであります。
(p.145)

……あなたの文章の中には、政府と自由民主党とが大資本の擁護をはかっていると二遍もかいてあります。・・・資本蓄積のために減税の措置を講じたことは事実ですが、それは、貿易の自由化など政界経済の変遷に応じて、経済の発展を図っていくために必要な手段でありまして、大資本の擁護などではありません。
(p.149)


昭和38年7月26日、厚生省より
「重症心身障害児療育について」の次官通達が発せられる。
重症児が国の施策に乗ることができた第一歩だった。
重症児指導費は1日55円61銭。その後、運動により150円に。

昭和39年6月には、島田療育園で在宅重症児のための巡回相談が始まる。
このとき、巡回に参加したのは医師、指導員、ケースワーカー、看護師の他に父母も。

サリドマイド禍(1961年 昭和36年

ドイツの学者が報告したのを機に、ヨーロッパではサリドマイドの回収が行われ、
12月5日には日本の製薬会社にも勧告が届いていながら、製薬会社と厚生省は
「有用な薬品を回収すれば社会不安を起こす」として、販売続行を決定。

翌年2月には別の会社にサリドマイド剤の製造を許可。
3月と4月には西ドイツの製薬会社から日本の製薬会社に警告があるも販売は続行。

5月になって日本のジャーナリズムが一斉に動いたことから
あくまでも「報道による混乱を避けるため」として企業側が出荷停止を厚生省に申し入れるも、
すでに出荷済みの在庫については販売された。

以下の下りには著者である小沢医師の憤りがこもっている。

 このようにして、日本の回収措置は諸外国に比べると半年遅れたのである。子どもたちのことを思って動いた大人はいなかった。大人の都合、社会の都合により、犠牲をしいられるのは常に子どもたち、そしてその家族である。日本におけるサリドマイド被害児はわかっているだけでも309名いるが、そのうちの半数は回収措置が早ければ被害を受けなかったと言われている。
(p.156)


島田療育園はこれらサリドマイドの被害児も引き受けた。
捨て子された子どもたちも少なくなかったという。

その他に、印象的だったのは、
TBSラジオ「あっちの空は光ってる」
異例の1時間番組で。ナレーション奈良岡朋子

島田療育園で入園児が事故死した際、
医師の一人は隠すことを提案したが、提樹は

……謝った。現場を再検証した。家族の前で、「私はいかなる処罰も受けます。もし、賠償金を求められたら、私の個人財産を全部処分して差し上げるように家族と相談します」と告げた。頭を下げ、すべてをさらけ出して。提樹は、辞職して、福祉社会から去る決心をした。幸いにも、家族は許してくれた。そのお母さんがあとで、「先生が、何もかもざっくばらんに言って下さったのが唯一の救いでした」と語ってくれたのが心にしみた。社会福祉とは、うそをいうものではない。道徳の問題なのだ。法律があるからやるというものでもない。
(p.216)


島田療育園が完成しても園までの道が悪いことを知った皇太子妃の美智子さま
「それでは、私が工夫代わりに参りましょう」という言葉。(p. 222)

それから提樹が去った後も島田療育園の運営を担い続けた山川常雄の次の言葉は
おそらく日本の重心療育に関わってきた人々すべての思いだろう。

重症心身障害の名前が児童福祉法の法律の中からなくなるのはたまりません。自立支援法の法整備の中で重症心身障害児者はどのようにわけていくのかあいまいになってしまいます。重症心身障害は日本にしかない名称であり、みんなであれだけ苦労して作ってきた制度なので残したい気持ちでいっぱいです。新しい法律の見直しをするなかで埋没していくのは許せない。絶対残さなければいけない。何もないところから民間の力で、われわれの力で作ったものなので、残さなければいけないと思います
(p.257-8)


この本を読みながら昭和30年代に官僚の口から出た言葉を知るにつけ、
まるで今の時代がそこに回帰しているようで、

高谷先生の『重い障害を生きるということ』や『はだかのいのち』
糸賀一雄のことを詳細に調べて書かれたルポ『異質の光』にせよ、
小沢先生のこの本にせよ、

重心の世界に身を置いてきた医師が
重い障害のある小さく弱いいのちを守ろうとしてきた日本独自の重心療育の原点を
こうして丁寧に調べては書き残さねばと払われる努力の後ろにあるのは、
あの時代に回帰しようとする今の社会のあり方への懸念であり、憤りなんだと思う。

高谷先生の本には
糸賀一雄の言葉がたくさん引用されている。

その中の一つ。

ちょっと見れば生きる屍のようだとも思える重症心身障害のこの子が、ただ無為に生きているのではなく、生き抜こうとする必死の意欲をもち、自分なりの精一杯の努力を注いで生活しているという事実を知るに及んで(中略)、この事実を見ることのできなかった私たちの眼が重症であったのである。
(糸賀『福祉の思想』 引用は高谷『重い障害を生きるということ』P. 171)


前に読んだ時にはとりたてて気づかなかったのだけれど、
その後『異質の光』を経て、もう一度この言葉に触れた時に、

糸賀一雄の「この子らを世の光に」というのは
弱く小さなこの子らのうちに宿る、
どんないのちも等しくこの世に生かしている大きないのちの光のことであり、
その光が私たちのあり方、社会のあり方を照らし返し、問い返すのだ、
ということではないか、

「この子らを世の光に」とは、
この子らの弱く小さないのちに宿る大きないのちは「問い返しの光」である、
ということなんじゃないか、と、

やっと自分なりの一応の理解ができたような気がしている。

そして、その糸賀一雄の言葉の隣には、
やはり提樹のこの言葉を置きたい。

「この子も私である。あの子も私である」



改めて、ここで考えたようなことを確認する思いになる本だった ↓
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 6:「新しい医療の文化」とは「重心医療の文化」だった!!(2013/2/5)