『言葉を育てる 米原万理 対談集』




……でも、地球規模で貧富の格差が広がってきているから、景気が悪いとはいえ経済先進国の日本にも合法的非合法的に経済移民はどんどん入ってきている。当然、低賃金無権利の彼等に仕事を奪われる。それがまた日本人の賃金の足を引っ張り、治安の悪化にもつながっていく。それで儲けているヤツを恨めばいいのに、いきおい外国人に矛先が向かう。だから今後、民族主義は盛んになるでしょうね。
(p.163-4)


 われわれが、何か言葉を出すときのメカニズムというのは、「本当はまだ言葉にならない状態があって、心の中に言いたいことや考えや感情や、そういったものが何となく形づくられてきて、やっとそれをいいあらわすのに最もふさわしい言葉とか文の形とか、それから言い方、スタイル……といったものがまとまってきて声になって出る」ということなんです。しかし、官僚の書いた文案というのはそのプロセスを経ない言葉なんですよ。感情のプロセスを全然経ない、表面だけの言葉というものには、裏がない。言葉が生まれるプロセスを経ない。もう残骸みたいな言葉なんです。そうすると、そういう言葉というのは、相手に入っていかないのね。
(p. 300-1)


こういうの、私は「身体の言葉」とか
「身体を伴う言葉」「身体を通した言葉」というふうに、
「身体」という言葉で表現してきた。

一人の人として人生の一回性を
自分はこれこれこういうふうに生きてきた、という生身の身体を張って
丁寧に言葉を探す努力をして、やっと獲得した自前の言葉と、

そうでない
頭の中でだけひねくり回して出てきた言葉や、
誰かから都合よく掠め取ったり借りてきた言葉との

圧倒的な重みの違い――。

それを自分で感じ分けることができないまま、
(前者の努力をしたことがない人には、たぶん感じ分けられないのだろうと思う)

世の中には、その人物が身にまとっている地位やポストの権威を
ありもしない言葉の重みだと勝手にカン違いする人が多いから困るんだけど。


 本当は脳がやっていた、いわゆる雑用部分をぜんぶ機械に任せてしまって、最も創造的なクリエイティブなところだけを脳がやる……おいしいところだけ……というふうに人間は、していますよね。だから、肉体労働だけじゃなくて、脳の雑用もぜんぶ、何かに任せてしまう。でも、おそらく創造的な力って記憶力と、すごく関係していると思うんですよ。

(中略)

 そうですよね。いろんな情報処理の雑用とか計算能力とか、そういったいろんな筋肉を使っていて、そのベースの上に想像力って花開くんです。今、どんどんどんどんそれをそぎ落として、想像力だけを残そうとすると、ちょうどキャベツか玉ねぎみたいな感じ、まんなかに、何が残るの? ということになっていくんじゃないかという気がしますね。
(p. 329-330)


これ、スーパー人類を作ろうという人たちが目指す方向性についても、
新優生思想的に多様性を失っていこうとする人間社会についても
当てはまっていくことのような気がする。


ついでに、もう一つ、

糸井重里との対談で、
当時の総理、小泉純一郎氏の言語的才能を
糸井氏がやたらと持ち上げて見せるんだけれど、

テキトーな相槌を何度かうった後で、
ウソのつけない万理さん、ついに我慢ならず、

「ただ、ずうっといつまでもセリフにすぎないところがね……」

糸井は何も聞かなかったかのように、
すぐさま話題を変更。

ぶははっ。