宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』



「重監房」とは、
群馬県草津市国立ハンセン病療養所栗生楽泉園にあった懲罰施設。

1906年に制定された「らい予防法」は
1916年に改訂され、ハンセン病療養所の所長に懲戒検束権を付与し、
医師が検察官と裁判官の権限を手にすることになった。

重監房が1938年に設置され、47年まで運用された9年間に
93名の患者が収監され、そのうち14名が監禁中に死亡。
8名が衰弱して外に出され、間もなく亡くなった。

もちろん、公式記録に残っている、これらの数字がすべてではない。

なにしろ、収監に関して正式な書類が作られたのは、
93名のうち、わずか1件(p.145)だというのだから。


2001年のハンセン病国家賠償請求訴訟・熊本地裁判決を機に、
ハンセン病回復者の谺 雄二さんを同大医学部に外部講師として呼んだことから、
楽泉園を訪れて重監房の跡を目の当たりにし、
谺さんたちと一緒になって重監房復元運動に身を投じる。

そのことを著者は「近づいていく」という言葉で何度か表現している。

 ハンセン病の患者、あるいは回復者として生きてきた人たちは、お互いのことを「療友」と呼びあう。「重監房を復元したい」という谺さんのことばに触れたときに、「療友」ではない私には二つの選択肢があった。そのまま遠ざかっていくか、それとも近づいていくか。けっきょく、遅きに失していることは重々承知の上で、遅々とした歩みながら、彼らの方へと歩くようになった。
(あとがき p. 176)


そうして、復元のための署名活動を続けながら
重監房について調べ始める。

たしかに、世界各国で隔離政策はとられたが、
「強制隔離」「強制労働」「断種」「懲罰」という四つの強権的制度によって
医師や医療行政に関わった人たちが強大な「権力」を手にし、
それによって患者の人権をここまで著しく侵害した国はなかった。

 重監房を一つの極とする日本のハンセン病政策は、世界のハンセン病の歴史の上でも、また医学の歴史の上でも、これまでに十分に記述されていない新しい歴史的事実を提示する。それは、社会差別が根強い病気の対策として、病気ではなく、患者を消し去る政策が、一つの近代国家の中で実現したことであり、その手段として、医療にたずさわる人間が患者に懲罰を与え、死なせたという歴史的事実である。
(p. 174)


それを著者は「世界最悪のパターナリズム」(第4章タイトル)と呼ぶ。

そこでは、人間を「善良なもの」と「不良なもの」に分けて、
例えば、前者ではごく当たり前の性的欲求とみなされるものが
後者では「刹那的な享楽」や「姦淫」と貶められる。

「患者」を「不良なもの」と捉えれば、
「患者」が力で抑え込まなければどうしようもない「犯罪者」として扱われてしまう。

たとえば、山井道太という患者さんは、
洗濯場の仕事に支給される長靴がみんな痛んでいるので
新しいものに変えてほしいとの要望を施設側に伝えにいったことが
「園内騒擾」とされて、草津に護送されて重監房に入れられ、
1月あまり経って出獄したものの、衰弱して死亡。

護送時に「自分も一緒に行く」と言い張った妻も、
草津で重監房に入れられた。

 園内で死んだ人はほとんど解剖された。入園するときの書類に「解剖していい」という欄があって、名前を書いてハンコを押させられていた。
(中略)
…解剖室からは火葬場へ世話人にもって行かせた。線香の一本も上げない、お経の一つもあげてやらない。……
(p.134-5)


(実は、つい先日、昔の重心施設は
「死んだら解剖して構わない」という書類にサインしなければ
入所させてもらえなかったという事実を知ったばかり)


それでも私たちは、

 そもそも、なぜ重監房のようなものが作られたのか。ハンセン病療養所は「医療施設」ではないか。そこになぜ、懲罰施設があるのか――。私たちはしばしば、この最も初歩的なおかしさにも気づかない。……
 (p.8)


米国ではタスキギー梅毒事件が発覚した翌1973年に
米国病院協会の「患者の権利章典」に「インフォームドコンセント」が明記された。

 ところが、日本では、そういった過去の重要事例がいくつもあったにもかかわらず、それをつぶさに分析して後に生かしていこうという努力をあまりしてこなかった。「和田移植」「薬害エイズ」「水俣病」などは、一つ一つの事例として扱われ、それらに通底する問題点を見つけ出そうという目が向けられなかった。ハンセン病問題は、日本の医学史上の事例として、間違いなく最上級のものだろう。それを一つの反省材料として、新しい感染症法などができた。しかし、もっと基本的な医療制度の構造的問題、患者の権利の問題などに目を向ければ、薬害事件や公害事件などとの共通点が見えてくるはずだ。生命倫理学者の仕事とは、そういうものではないだろうか。
(p. 19-20)


詳細な調査によってあぶりだされていく事実は
あまりに衝撃的で、その残酷に心が凍りつきそうになるのだけれど、

ハンセン病問題との出会いによって「無知の人」になり、
「耳を傾け、目を開き、手で触れてみる」ために
自分の方から「彼らの方に近づいていく」という選択をした著者の、
学者としてのあり方に深い感動と大きな敬意を覚え、

それが
患者さんたちの闘争や権利運動のうねりとともに
この本を読み進めていくための力と希望になってくれる感じがした。

ところで
重監房は患者らの権利闘争によって廃止され、
あっという間に取り壊されてしまう。

そして、

 ……ここであった出来事の責任を問われた人は誰もいない。そこでたくさんの人が死んだことについて、国会でもそれ以上の追及はなかった。……(中略)……重監房で起こった出来事は、世界にも類例のないものである。しかしその実態は、ただ一通りの調査が行われただけで、ほとんどやり過ごされてしまった。
(p. 160-1)


この国は、今も同じことを繰り返している。