高谷清『嘔吐』


あとがきによると、ここに収録された6篇の短編小説は
1980年と1981年に書かれたもの。

10月に読んだ『支子―障害児と家族の生』が1996年の出版だったから

こちらは、ざっとその15年ほど前の高谷清先生の問題意識が
小説という形式で描かれている作品集ということになる。

それはちょうど、
後に『支子』にまとめられることになる障害のある子どもの家族の話を
まずは聞きたいと考えて、その試みを始めながら、自分にはまだ「聞く力」が十分に育っていないと
その試みをいったん棚上げされた少し前に当たるというのも、たいへん興味深い。

私は3年前の『重い障害を生きるということ』(文末のリンクを参照)との出会いを起点に
高谷先生の著作をいくつか時間軸を逆にたどる形で読み進んでいる格好になる。

私はノンフィクションという形で娘とのことや、そこにある思いを書きながら、
「この先はどうしてもフィクションという形でしか表現できないな」と
限界を感じることがあって、だけど私には小説を書く才がないので
そこから先にはどうしても手も足も出ないのだけれど、

正直、この本を読んで一番思ったのは
高谷先生はなぜ小説を書き続けられなかったのだろう、
書き続けられればよかったのに、ということだった。

『はだかのいのち』も『重い障害を生きるということ』も
多くの貴重なメッセージを含んだ、とても良い本だけれど、
あそこで書かれていることが、
もしも『嘔吐』の後も小説書きとして精進を積んだ高谷先生によって
小説という形で書かれていたとしたら……と想像すると、
今からでも書いてもらえないものか、と強く思う。

それほど、この6編の短編小説の中に、
その後の高谷先生が多数のノンフィクション作品を通じて
訴えようとしてこられたものの全貌がすでに姿を見せている。

例えば、表題作の『嘔吐』の以下の下りは
まさに『支子』での聞き取りへのつながりを思わせるし、
さらには「医療」と「生活」の相克という視点の芽生えでもあるのだろう。


 山村は自分でそれなりに仕事に熱心だったと思っている。今までいろいろの病気を診てきて、必要なら関係文献を調べ治療の努力をしてきた。自分がこの生命を助けたのだという実感をもったこともあったし、充実感があった。病気が治り退院した子どもたちが次に外来診察に来るのは、また身体の調子を崩したときであった。その病気が治っていけば、また目の前から消えていった。だから生活のことは知らなかった。病気が重篤なときには生活のことなど聞いている間がなかった。というより病気を治すこと以外にあまり興味を感じなかったし、熱心ではなかった。
 文男はそれを拒絶した。コーヒー残渣様嘔吐を山村は教科書にのっとって考え、治そうとしたが、その原因が判らず症状は医学の常識を外れた現れ方をした。山村はその症状を通して脳性まひという障害を見、その障害を持って生きている文男という一人の人生に接触しだしているといえた。病気と人間が一体となって存在していることが目の前に広がっていて、それに取り組もうとする意欲と不安を山村は自分の中に感じていた。
(p.52)


総合病院の若き小児科医である主人公の山村は、
医学部時代の同級生で重症児施設に勤める仰木医師に会いに行き、
知的にはほとんど遅れがない状態で重度の障害のある身体に閉じ込められている文男が
その「矛盾」によるストレスからコーヒー残渣様嘔吐を繰り返しているのであり、
その解決のために必要なのは必ずしも医療ではないことに気づく。

……心身の矛盾があるからといって身体状態に合わせるために精神活動を低めたらよいのではなく、矛盾があって身体に囚われるようにして精神活動が発展しにくいのだから先行している精神活動をさらに高め、一方で身体を動かすことを考える。
……
――文男の精神活動をもっと豊かにすることか。


ここで山村はフランクルの『夜と霧』に思いをめぐらせて、
アウシュヴィッツの極限状態と重症心身障害児の極限状態を重ね合わせるのだけれど、
興味深いのは、山村の交際相手の澄江が養護教諭であること。

澄江の視点によって語られる障害のない子どもたちの登校拒否などの異変が
作品世界を医療現場から教育の場へ、さらに社会のあり方へと広げる役割を果たしている。

6編のうち『スケープゴート』だけは
重症障害児者の周辺で働く人を主人公とせず、
平凡な主婦を主人公として子どものイジメの問題を扱っていることも、
そうした著者の視点を感じさせるものだけれど、

著者は『嘔吐』の澄江に
今の子どもたちが置かれている知育偏重の教育を含めた「今の社会」について、
「ゆるやかなアウシュヴィッツね」と言わせている。

『嘔吐』では重心児の文男と平行して、
病棟では友也というもう一人の少年の白血病が悪化の一途をたどっていき、
山村に重い障害とともに生きる、ということについて考えさせるが、

次の『幻』では
今度は仰木医師が主人公となり、
『嘔吐』の文男と同じような状態にある邦男のために、
幻覚剤の使用を考えて葛藤する。

今度は高齢者施設で介護職として働く妻の美沙子が
劣悪な高齢者介護の実態を挿入する他にも、

邦男以外の重症児者の家族をめぐる問題や、
見学者の無理解など、さまざまな社会の側の問題が描かれていく。

印象的なのは
それらを経巡りつつ邦男を助けてやりたいと模索する仰木が
やがて自ら邦男の食事介助をするようになり、
その体験を通じて幻覚剤が解でないと悟っていくこと。

私はこの本を読んで改めて
高谷先生は若い頃に重症児と出会うことによって
「医師である自分」を一人の人としての目線で「問い返す」という視点を
獲得されたのだな、と気づいた。

例えば、

 重い肺炎による高熱と呼吸困難を酸素テントの中で乗り越えたベビーが退院する時には、治したという実感が胸から溢れてくる。何よりも知識と技術が要求される。酸素が必要かどうか、強心剤をどこまで使うか、輸液の組成は、細い血管への静脈注射、緊急にたたみかけるように看護婦に次々に出す処置の指示。酸素10リットルに増量、テラプチク、ワンショットで、ボスミン側管からゆっくりと、人工呼吸マウスツーマウス、自分の指示で呼吸を合わせて動く看護婦たち。点滴が速く落ちる、血圧が上昇してくる、呼吸が戻ってくる、ホッと息をつきもう一度診察する。OK、大丈夫、看護婦の顔を見る。――よかったねぇ――と看護婦も汗ばんだ顔で合図を送ってくる。――お母さんもう大丈夫です。危険な山はのりこえました。だんだん落ち着いてきます。意識も回復してくるでしょう――母の感謝のまなざしを背中に感じながら病室を出る。詰め所に戻りタバコをとり出す。主演俳優が幕の降りたとき、観客の拍手の中で自分の演技に充実感を感じるのは、あのような気持ちのことだろうか。
 大学病院にいたとき筋ジストロフィーの少年の主治医になったことがある。どうせ進行する病気だという頭があった。尿を調べ、血液を検査したのも自分の医学的興味であった。ひとしきりの検査が終わると速く退院させたかった。治る方法が見つかるはずだと信じている母親の顔を見ないようにして、筋ジストロフィーの施設を紹介していた。
――自分にとっては病気だけしか見えなかったようだ。病気を背負っている子どもは症状のかたまりのようだった。
 だけどそれは自分の経験や技術が未熟であったから、症状や病気以上のものをみる余裕がなかったからだとも思えた。
『嘔吐』(P. 54-55)

 邦男がそういう時間(spitzibara注:時々ぼんやりすること)をもっているということは仰木にとっては初耳であった。ぼんやりしているようだといっても外見上はそう変わらないので、こういうことはよく慣れた職員しか掴めないのだろう。それに仰木は邦夫にしろ他の子にしろ病状が悪くなったときだけしか診ていず、元気な時の様子をあまり知らなかった。
「邦男はどういうことが一番楽しいんだろうね」
『幻』(p.82)


海が重心施設に入所した頃、
当時の婦長さんがこのことをしきりに言っておられた。

「医師は子どもたちの調子が悪い時しか診ないから、
状態が悪い時のこの子たちの姿しか知らない。

でも日ごろの元気な時のこの子たちの姿を知っていなければ、
どれくらい悪いかなんて、ほんとうは分かりようがないのに」

驚いたことに、当時は
ケース・カンファレンスにも医師は出ていなかったのを
この婦長と育成課長が働きかけて、ようやっと
ケース・カンファレンスに医師も出るようになったところだった。

(そもそもケース・カンファレンスにも出ずに
「チーム医療」のリーダーが務まると考えられるというのが私には理解できない。

その後、私自身も大変な思いで問題提起して、
保護者もケース・カンファレンスに出るようになったのだけれど、
園長が変わり、師長が変わり……するうちになし崩しになっていった)

私はもうずうううううっと娘の施設で園長を始めドクターに、
入所している人たちが生活する場に「きて」ください、「いて」ください、と
お願いし続けているのだけれど、

悪くなった時に診ることだけが、
つまり「医療」だけが重心施設の医師の役目だと捉えるドクターには、
その声はなかなか届かない。

そういう医師にも、
『夜勤』の主人公である重心施設の看護師、絵美のような問いが
訪れることはあるのだろうか。

――ねえ。どうしてそんなに苦しんでまで生きているの。
『夜勤』(p.178)


医療による救命をめぐって
仰木の次のような深い洞察が訪れることがあるのだろうか。

……夜中に呼ばれて処置が一段落しほっとしたとき、仰木は生命(いのち)が生きるためにたたかっている、人間のかたちをした生命(いのち)そのものだと素直な気持ちでおもう。
(p.94)


これらはやはり「医療」を越えて、
例えば「障害を持って生きている文男という一人の人生」への「接触」を経て初めて可能な、
「医療職」としてではなく「一人の人」としての述懐であり洞察なのではないだろうか。

それから、
心施設の支援職の視点で描かれる最後の「移送」という作品で印象的だったのは、
入所の「光ちゃん」を親元の新潟に帰したいと尽力する他の職員と
親も面会には熱心なのだから無理に帰さなくてもいいのでは、と考える主人公の会話。

「でも、それじゃぁ大津学園は両親の代わりに光ちゃんを育てているだけになってしまわない」
「それでいいんじゃないの。大津学園の方が、保護や看護師がいるし、親よりずっとうまく障害の重い子をみているんじゃない。それに光ちゃんは新潟に帰っても、ここにいても何も分からないし」
「そりゃ光ちゃんは何も分からないし、療育だって私たちの方が慣れているわ。でもねえ、そういうことだったら、障害児は全部施設へ入れておいたらよいということにならない?」
……
「わたしはねえ、施設が悪いって言っているんじゃないのよ。障害児の力をのばしていくのに施設はどうしても必要なの。だけど施設だけで請負ってしまったら、障害児は社会から忘れられていくと思うの。家族・地域と施設が一緒になって、両方で分担しながら療育していくのが望ましいと思っているの」
……
「地域で障害児がいないことになってはいけないし、社会生活の中で保障されるってことがないと、障害児は本当に理解もされないと思うの」
(p. 195-196)


「生活」や「人生」の中で「重症児医療」を考えるということ、
さらに社会や地域福祉の中で重症児療育のあり方を考えるということ、

あるいはその逆に、
重症児者の視点から医師としての自分を問い、また社会のあり方を問うということ。

それを重症児施設の医師がずっと自らの課題として、
ものを考え、ものを書き続けてきたのだということに、

『重い障害を生きるということ』を起点にその著作を逆にたどるたびに、打たれる。


全6編を読んで一番強く残るのは
やはり「ゆるやかなアウシュヴィッツ」という言葉。

重症心身障害児者が生きている姿に宿る「光」によって「いのち」を考えた時に、
その「光」に照らし返される社会のありようが見えてくる。

がんじがらめにされて可能性を狭められて苦しんでいる人々が
互いに相手を貶め、ヘイトに満ち、差別しあって、
囚われた弱いもの同士がさらに首を絞め合うように仕向けられていく、

障害のために文男や邦男の苦しみが見え難いのと同じように、
その苦しみは見え難くされているけれど、
緩やかなアウシュヴィッツと化した社会のありようが。

そして、たぶん、
子どもたちが親をはじめとする大人たちの欲望によって
がんじがらめにされている度合いも、

経済格差の広がりで、
弱いものが強い者の都合によってがんじがらめにされている度合いも、

1980年代よりも今のほうが
さらに酷くなっているのだろうし。