川島孝一郎「統合された全体としての在宅医療」:医学教育ではICFを教えない?!

施設は「生活の場」であるということが
なかなか「医療」に(時に「看護」にまで)理解されず、
「病院と同じ考え方や姿勢の医療」が「病院における医師(医療職)の権威」で強行され、
施設が「病院でしかないところ」にされてしまいがちだ、という問題には、
ずっと悩んできたのだけれど、

つい最近、娘のいる施設でのあれこれの見聞から

あぁ、やっぱり医師にとっては、
心施設の医師が担う仕事は「医療のみ」であって、
自分たちがまず「医療」をやった後で、「生活」はその残り、別の職種が考えること、とか、

重症の人に必要なのは「医療」であって、
「生活」を考える余裕があるのは軽度の人の話だ、という頭なんだなぁ……と、
改めて、旧態依然とした医療(看護)の意識のあり方を思い知らされている。

そんな中、『現代思想』9月号の中の川島孝一郎氏の
「統合された全体としての在宅医療」を読んでいたら
以下の短いセンテンスに、驚きのあまり、目が釘付けになった。

ICFに関する講義は医学部ではおこなわれていない。
(p. 150)


うそ。まさか……。
いやー、びっくりした。

確かに、重心施設の(施設長を含めた)医師の中に、
成年後見人制度の詳細どころか理念すら理解していない人もあることは、
個人的に居合わせた、ある場面で発見して、びっくりしたこともあるんだけれど、

じゃぁ、重心を含めた障害者医療に関わる医師の中にも
ICFって、なにそれ?……という人が、案外に多いんだろうか。

それ、ほんと、「まさか……」なんだけど。

ちなみに、ICFとはInternational Classification of Functioning, Disability and Health
「国際生活機能分類:国際障害分類改定版」

私もあちこちで読みかじり、聞きかじっただけで
詳細に理解しているかと問われたら、そんな自信は全然ないけど、
「WHO国際障害分類(ICIDH)からの改訂の要諦が「活動と参加」という視点、
それから上記リンクの言う以下の箇所であることくらいは理解している。

これまでの「ICIDH」が身体機能の障害による生活機能の障害(社会的不利を分類するという考え方が中心であったのに対し、ICFはこれらの環境因子という観点を加え、例えば、バリアフリー等の環境を評価できるように構成されている。


生活機能とは「生きることの全体」であるといい、

だからこそ、
日本人の多数は障害者となった後に死亡する」ことを考えると、
在宅医療を担う医師がICFを知らなければモグリなのだ」という川島氏の主張は、

私には
「生活の場としての重心施設の医療を担う医師がICFを知らなければモグリなのだ」
言い替えたっていいんじゃないか、と思えるのだけれど。

「生きることの全体」としての「生活機能」のそのココロを
川島氏は以下のような言葉で解説している。

 ICFでは、健康状態を心身機能・活動(生活活動等)・参加(社会参加等)の統合された全体とみる。統合(integration)の解釈が重要である。統合がなぜ部分の集合(assembly of parts)ではないのか。……

 健康状態も身体機能のみで評価されるものではない。たとえ半身不随でも、胃瘻から毎日お酒を晩酌して楽しい食生活の活動をおこない、選挙の時には車イスに乗りヘルパーさんとともに投票をしてくる社会的存在なのだ。不自由なりの精一杯の活動・参加の統合された全体により新たな(一つの全体としての)健康状態を作り出しているといえる。……●から■そして▲と生きることの全体構造の形態(ゲシュタルト)が変容しても、内的・外的環境と調和することにより新たな全体としての新たな健康状態をそのたびに作りあげているのである。
(p.151)


……人間身体は有機的に外部や内部環境と融合して統合された全体として生きている。
 生活機能=生きることの全体は国・民族・家族・個人によって異なる。……

 それゆえ在宅医療をおこなう医師もまた、野球をする生活者のプレーを外野席から批評したり指令するのではなく、内野に下り立ち生活者とともにプレーを実感するものだ。……

 地域包括ケアに集う生活者・あらゆる職種・行政・福祉制度のすべてが統合された全体の内部構造としてそれぞれの生活者ごとに形成される。問題が起こるたびに心身機能・活動・参加・環境因子・個人因子を賦活することによって循環型で双方向性の支援を継続してゆくのだ。ICFはそれゆえ原因結果型の対処法ではない。めぐりめぐって最期の日まで生活機能が永遠に維持されていくプロセス重視型なのである
(p. 152)

(引用、ゴチックはいずれもspitzibara)

また、
胃瘻や人工呼吸器を「無駄な延命治療」と決め付ける現在の終末期をめぐる議論についても、
ほとんどの人が障害者となって人生を終える以上、


……終末期などという特殊な話ではなく、障害者の待遇改善、自立支援、意識の向上、社会制度の整備が十分に行われる障害者論として協議されなければならない。
(p.153)


これ、すごく刺激的な提言だと思う。

つまり、「生きたい障害者に死ねとは誰も言っていない
障害者の問題じゃないんだから、すっこんでいろ」という
尊厳死や医師による自殺幇助合法化推進派がよく言うセリフは
実は逆だということですね。

これ、いつかNot Dead Yetのコールマンさんも言っていた
障害者の大半は終末期じゃないけど、
終末期の人の大半は障害者だって。

それなら、
最後の瞬間まで患者の生きることを全体として捉え支えるという視点で在宅医療ができない
実態の原因を「医療と医学教育の制度疲労にあると主張する川島氏が
以下のように指摘する現状の問題も、

そのまま
生活の場であるはずの重心施設が「病院でしかないところ」になりがちな
現状の問題と考えても、当てはまるのではないか、と思った。

① しばしば信頼を築けない医師―患者関係があること
② 解釈(構成概念)と実態を取り違え、用語の説明ができない医師
ICFに基づく生活機能を基本とした説明、心身機能・活動・参加の統合された全体である健康状態の説明、心身機能・活動・参加について環境因子・個人因子を組み入れた支援(地域包括ケア)の提示のいずれもできない医師
④ 80パーセントの医師が緩和ケアを知らないために、心身の苦痛が十分に除去されない。
介護保険・障害者総合支援法等の具体的支援策の説明と提示ができない医師
⑥ ①~⑤のままに意思決定を迫られる患者
⑦ 不十分な説明に誘導された意思決定はもともと不完全であること
⑧ ⑦の元凶が自分にあることに気づかない医師
⑨ 自分の至らなさを法制化やマニュアルでしのごうとする医師
⑩ ①~⑨の原因の一つは要素還元主義に偏重した医学教育である可能性


川島氏は、この論考の冒頭で、
そもそも以下のような現状の「(医学)教育が大きく災いしている」と書いている。

……コミュニケーションを技法と称し、ツールとして用いる。手段化された人間関係の構築は、相手を対象として冷ややかに見つめる観察者、対象を操作する技術者を育てるだけで、ナマの付き合いを遠ざけてしまう。
(p.147)


そういう現在の関係性が
9月に重心学会で問題提起させてもらった
「ともに考え、ともに悩み、ともに決める」地平に到達するためには、
まず、この①から⑩の壁を乗り越えなければならないのだとしたら、

それは患者・家族の側から越えられる性格のものでもなさそうだし、
「ともに考え、ともに悩み、ともに決める」地平とは、
なんと、はるかに遠いんだなぁ……。

出典が私にはうまく読み取れないのだけれど、
引用されているということは、川島氏も以下のところに同意なのだろう。

……患者の意思は対象として把握されるのではなく、彼と医療者がその全体性の中で、なるほど、とわかり合うことなのである。全体は、部分の総和とは異なるこの全体性こそが、心理構造の特殊性であり、科学以前の最も根源的なところから生まれてきたものなのである。生活者とともに行動する在宅医は、特にこのことに秀でていなくてはならないだろう。
(p.148)


川島氏の言う「生活者とともに行動する在宅医」を重心施設に置き換えると、
「入所者とともに生活する重心医師」と言ってもいいんじゃないだろうか。

いや、川島氏が説いているのは
高齢者の在宅医療を障害者の生活機能分類ICFから捉えなおそう、という話なのだから、

そこはむしろ、高齢者の在宅医の前に、
本家本元の「(重心医療の医師を含めた)障害者にかかわる、すべての医療職」が
まずは問われる姿勢だというのは当たり前の前提なんだった……。

で、実際のところ、どうなんだろう?

障害者にかかわる医療職の方々は
ICFについて、ご存知なんでしょうか?





【8日追記】
このエントリーをある重心医療の専門医に読んでいただいたところ、
重症心身障害児(者)療育マニュアルという
重症心身障害児(者)関係者なら皆もって読んでいる本には当然ICFも載っているので、
ちゃんと重症心身障害児(者)医療に取り組んでいる医師は知っている」と思う、とのことでした。

裏返せば、「ICFを知らない人は、ちゃんと重心医療に取り組んでいない=モグリだ」
と言うのはアタリ、ということに(笑)

このマニュアル、私も何年も前に読んでいるのですが、
そして実は9月の重心学会の前にもざっと目を通したはずなのですが、
そこにICFが載っていることは、すっかり失念していたので、
本棚から引っ張り出してみると、確かにp. 12~15まで
ICFが分かりやすく解説されています。

ただ、これは、ICFに対する、
あくまでも医学モデルの枠組みからの解釈にならないかなぁ、とちょっと疑問なところも。

たとえば、以下の捉え方。

ICFの生活機能モデルでは)、初版で「疾病・変調」とされていたものが「健康状態」と表現されている。
(p.14)


それから、「医学モデル」と「社会モデル」についても、
発達期の障害児や成人が中途障害を負った直後は「医学モデル」が最重要で、
その後、成人したり障害を負って時間を経ると「社会モデル」へ、という優先順位が示されて、
その後、統合の重要が説かれている15ページあたり。

たとえば以下の下り、とても象徴的な気がする。

……しかし、発達期をとうに過ぎ、あるいは障害を受けて何年にもなるのに、医学モデルに終始しているとすれば、それは人権侵害である。

 個人が変わることができなくても、環境を変え、支援を変えることで、個人の生活も人生も大きく変わることは十分に期待できる。医学モデルと社会モデルの統合こそ重要なことがらといえよう。
(p.15)


まずは個人を医療で変えることが第一で、
医学モデルで時間をかけても変えることができないところについては環境や支援を変えて……って、

これは本当にICFで意図されている「統合」なんだろうか?

これこそが、このエントリーの最初のところで書いた、
「まず医療」、生活(人権も?)は「その後で、あるいは残りで考えること」という意識では?

子どもの障害を知らされて動揺期にある親は、
なるべく早い時期に同じような障害のある子どもを持つ親につないであげてほしい、と
「療育の専門家」に提案すると、「時期というものがあるから、
まず私たち専門家が対応して、ある程度落ち着いてから」という回答が帰ってきたりするんだけど、

実は、この時期の親を一番手ひどく傷つけているのが、
まさに、この「私たち専門家こそが」と気負う人たちの無理解・無神経な言動なんだけどなぁ……と
前のブログのどこかで書いた話を思い出した。

この本には蛍光ペンで結構あちこち線が引いてあって、
ここの「医学モデル」と「社会モデル」の箇所にはさらに鉛筆書きで
「常に双方のモデルが機能している必要がある」と書き込んでいる。

たぶん初読当時も、私は、
そこはかとなく感じられる「優先順位」感覚に同じ疑問を持ったものらしい。

川島論文を読んだ今なら、
「常に双方のモデルが'統合されて機能している必要がある」と書くところか。

「生きていることの統合された全体」という川島氏のようなパラダイム
捉えなおしたところこそがICFの「健康状態」の要諦だと思うし、

マニュアルに書かれているような
「表現」が「変わった」とか「置き換えられた」という次元の問題ではないのでは?