『文藝別冊 佐野洋子』



昨日の朝のドカ雪の衝撃とあまりの冷え込みに
ちょっと毒気を抜かれたみたいになって、
何の「やる気」も失せてしまったところへ、

さすがに今日は来ないだろうと思った宅配便がやってきて、
アマゾンからこのムックが届いたものだから、
すごく「儲けもの」をした気分になって、

久しぶりに、
ひがな1日、寝っ転ろがって本を読みふける、という贅沢を味わった。

読み終わって、案外に印象に残ったのは初期エッセイ集。
特に「うそ話を」の以下の下り。

 青春期に絵を描く学校に居て、友人の何人かは、明らかに自分の天分を信じていた。 

 私は多分、そのような錯覚なり自信なりを一度として持ったことがなかった。只の人として、絵を描き続けることで、ほとんどの人が、只の人だということがわかった。そして、只の人も、それぞれかけがえのない自分であるということを学んだ。

 只の人がますます只の自分であることに、かぎりなく近づいてゆくということは、面白いことだった。
(p.214)


 喜びも哀しみも、生活することを外して、得ることができないことを思うと、頭の中だけのイマジネーションなど、あるはずがないと思うのだ。

 おしめをとりかえることと絵を描くこと、ビニールの袋の中に燃えるゴミと燃えないゴミを分別することと文章を書くことは区別出来ることではないと思う。

 区別してはいけないと思う。

 私はイマジネーション豊かに生きたいと思う。

 豊かな作品を作りたいと不遜にも願う。

 イマジネーションというものを得ることが出来るのは、不都合なことを山とかかえた、あんまり羨ましくもない生活を平凡に積み重ねることによってしか得られないのだと思う。

 いや応のない現実に直面し続けることによってしか、想像力は生まれないのだと、私は頑迷に信じているのだ。
(p. 215-6)


このあたり、山田詠美との対談の以下の発言と呼応する。

でも男って生活してないじゃん。それでも物書きの殆どって男でしょ。だからあんな変な小説ばっかりが出てくるんだね(笑)。
(p.192)


私は、このあたりのことが
実は「パーソン論」とか「自尊死」の根っこのところにあるんじゃないか……という気がしていたりもする。

でも、そんなことより何よりもダントツに面白かったのが
元夫の谷川俊太郎氏と息子の広瀬弦さんの対談。

そこから透けて見えてくる佐野洋子の実像。

そうかぁ、佐野洋子ですら「佐野洋子」を演じていたんだなぁ……と、

それは佐野洋子のエッセイを読むたびに感じる小さな疑問でもあったので、
それがやっと氷解した。すっきりした。

ついでに、その証拠(?)まで見つけちゃったもんね。

佐野さん、『神も仏もありません』の中で、
こんなことを書いている。

……私は一生猫なで声というものを出したことがなかったらしい。……


こう書かれると、読者には、
佐野洋子という人は、まさしく、そういう人だ! と思える。

でも、このムックに掲載されている初期エッセイの
「大人も子供もあるもんか」の中には、こんなふうにも書かれている。

 亭主が猫のひげを切ったり、足の裏にセロテープを貼り付けたりすると、私はおそれ、おののおき、腹を立てる。「ニャー」と鳴けば、何の「ニャー」か正しく理解しようと、身をかがめて猫なで声を出す。

 私は猫の機嫌を損じないために、猫の絵を描いている。


これはこれで、ここを読む読者には、
そうよ、そうよね、佐野洋子って、そういう人よ! と思えてくる。

で、これって、結局、佐野洋子はウソをつかない、
ということでもあるような気がするから、

やっぱり佐野洋子はすごい。