川口有美子『末期(まつご)を超えて ALSとすべての難病にかかわる人たちへ』



川口有美子さんと、難病患者やその周辺の人々との対談集。

初出時に読んだものも本書で改めて再読すると
それぞれに理解も味わいも深まってくる。

特に現在考えている問題に直接的に繋がる発言の多かった、
大野更紗氏、中島孝氏との対談から、メモ的に。

・まず、大野さんが語っている小規模多機能型居宅介護事業所での事例が
とても面白いので、概要。

都内在住の80代のおばあちゃんを受け入れた。
胃がんの末期ステージで「ターミナル」と診断されていた。

本人は意識朦朧で、家族も「このまま死なせてあげてください」。

そんな中で、介護職員の若い女性一人だけが
直感的に「違う、これは、ただの脱水」と思った。

「この人に必要なのは、1日3時間の点滴を打つ見守りです」と
ケアマネージャーに交渉し、果敢にも実行。

そうすると、まず意識障害が戻り、口から飲み食いができるようになって、
その後、自宅に戻ることができた。


大野さんは、
「医療現場のリアリティと、より生活に近い場所にいるケアの現場のリアリティの違いが、端的にあらわれている」(p.100)


大野 これから病床の機能は分化されていきます。医師は、もっと他の人に関わりを委ねたり、他の人に口出しをされる訓練をしていかないと、これからの社会には太刀打ちできなくなりますコメディカルや行政との連携なしには、やってゆかれない。
(p. 108 ゴチックはspitzibara)

大野 医師は、「患者さんのために」と言うとき、本当に「患者さんのために」と思っているか、顧みてほしい。「患者さんのため」をもっとつきつめてください。答えはいつも、その問いかけの中にあるはずです。

川口 「リビング・ウイルは患者の権利」だとか言うけど、返す刀で「医者の免責のため」だって。今回は議連も正直ですよね(笑)。
(p.109 ゴチックはspitzbibara)


・そのリビング・ウイル(事前指示)について、中島孝医師の指摘が鋭くて、

 この尊厳死の宣言書(リビング・ウイル)は医師からの情報のない時点で署名することが本来の特徴となっており、通常の医療プロセスからみればまったく問題外です。説明もないのに自己決定するということです。
(p.164 ゴチックはspitzibara)


……事前指示は医療方針を決める通常のインフォームド・コンセントとは異なり、事前であればあるほど、患者が判断する必要な情報はまだまだ少なく、その時の病体が悪くなければないほど、将来の病態に対する不安や逃げ出したいという意識のみが強くなってしまいます。医療機関が積極的に事前指示を患者に促す場合には責任回避や、ケア体制の不備を免責する動機が隠れている危険性があります。治療困難な患者に対して、十分なケアが難しい場合、患者に「あきらめや絶望をさせ、死を早める自己決定をさせること」は容易なことです。医療や社会が冷たく患者に接すれば、病気が治り難く、弱い立場の人ほど簡単に希望を失います。そのとき、医療機関が治療拒否を患者の自己決定内容とし、事前指示書として仕立て上げてしまう危険性があります。
(p.165)


・この後、中島氏は、自身が在住している県の難病ネットワークで
患者が呼吸器をつけたいかどうか、事前に
① 非侵襲的人工呼吸療法 ②気管切開による人工呼吸療法 ③何もしない
という3択で聞き取って、記載しておく用紙を提案した、という話をして、

……私たちは何とかやめさせましたが、これを今、全国で始めている可能性があります。保健師からみればサービスの効率化と向上なのでしょうが。
(p.165)


この問題、こちらのエントリーで書いた、
日本版POLSTによる「自己決定」の強要という問題そのものだと思う。
これは様々な形ですでに始まっています。


・もう一つ、中島氏の話の主要テーマのひとつに、
緩和ケア概念の誤解があって、それが非常に興味深かった。

……よく緩和ケアは「死の受容」を目標としていると思われていますが、まったくの考え違いです。緩和ケアは「死に至る病であっても病気と共に生きていくこと」を肯定する過程をサポートするのです。これは大きな違いです。巷の死生学(death education)や死の受容の解釈はまったくの間違いです。実は、延命治療か死かというフレームではどんな人も葛藤を解決できないとするところから緩和ケアは始まります。
(p.137)


中島氏は、ホロコーストが起こったのはナチの人種政策だという解釈は間違いで、
ドイツは理想的な医療と福祉を実現させてようと制度整備に努めた結果、
その経費が軍事費を上回ったことから、

中島……ドイツはてんかんを持つ重症心身障害者ケアを頑張ったが、頑張ったのに治せない人を安楽死させた。ケアしきれずに慈悲殺をした。……

川口 国民的バーンアウトですね。

中島 ……これだけの最高の医療をしたのに、それで治らない人には良い死(good death)しかないと思った。それが安楽死で、安楽死自体は「良い死、素晴らしい死」なんです。

 このようなフレームでは必ず「滑りやすい坂」(slippery slope)が起きます。どこまでなら生存を認めるかという話になってしまう。……終末期はここからだと定義して、ここを充たした人は死んでもよい、という基準を決めた途端に、その基準は任意にどんどん変えられます。このフレームで医学を構築するのは間違いだと気づくべきです。
(p.155 ゴチックはspitzibara)


この下りでの、もう一つ、中島氏の極めて重要な指摘は、

……世界的には尊厳死の人たちは、私たちはナチスではなく、自然死であり人権運動だ、死への権利(right to die)という患者の権利運動だ、と言うことがあります。ところが、日本のその本の著者は全員医者であり、患者の権利運動ではない
(p.155 ゴチックはspitzibara)


・もう一つ、QOL概念が間違っているという指摘については、

 まず、QOLは科学概念なのかということが問題となります。科学概念であれば、操作主義的に評価できますが、人のQOLは本当に評価できるのでしょうか。実は、我々がQOL概念を考えるとき、生命の尊厳(Sanctity of Life, SOL)をイメージしているのではないでしょうか。Sanctityというのは本来、霊的・宗教的な言葉で、これを医学論文に書いた途端、編集者がリジェクトするものです。

 しかし、QOLを論じているほとんどの人は、QOLをSOLと混同して、SOLの代理指標として使っているのです。例えば、「この方はQOLが低いから、生きる意味がない」とか、「こんなにQOLが低いのならば、本人の尊厳を守るために死を自己決定するのもよい」とか。
(p.122)

……QOLは科学的に評価する必要がありますが、QOLは人間の尊厳を計るなんていう滅相もないことをするわけではなくて、操作主義的にその人の具体的な現実の「生活の質」を支える目的で測っているだけなのです。生命医学倫理の人たちは、合理的な自己決定能力がある人は尊厳があると考え、尊厳の科学評価のひとつの指標としてQOLを捉えていると思えます。これは価値観の相違ではなく、科学論上の勘違いとしてよいと思います。勘違いでないとすると、「QOLが極端に低い方は死んだほうがよい」との主張の賛成者を集めるために“尊厳”という言葉を入れて本質を隠蔽しただけかもしれません。同様に、生命医学倫理ではオートノミー(autonomy, 自律)概念の理解もおかしくなっています。
(p. 126)


スピリチュアル・ケアについても
とても興味深いやりとりになっているのだけれど、

私には川口さんの以下の発言が、
上でメモした大野さんの「より生活に近い場所にいるケアの現場のリアリティ」として
我が身に沿って、とても分かりやすく、すっと入ってくる。

川口 ……丁寧な介護をしていれば自然にその人の存在が大事になり、無言の身体も身体や皮膚の状態、顔色、脈拍、唾液、涙、発汗、血圧、体温、排泄物等で、相当のことを語り出しますよ。バイタルサインを言葉に翻訳できるほどそばにいて、その声を聞くこともスピリチュアル・ケアだと思う。
(p.171)


ただ、このリアリティは
体でそれを知っている人にしか実感できない。

我が身でそれを知っていない人には、言葉で表現してもなかなか伝わらないし、
知らない人は分かろうともしないことが多い。

その壁はあまりに厚いのだけれど、

この対談集を読んでいると、
その壁とこうして格闘し続けている人たちがいる、ということのリアリティに
とても励まされる。