白石一文『神秘』



アマゾンの「内容紹介」

 余命一年で知った、本当の人生――
 末期のすい臓がんで余命宣告を受けた53歳の出版社役員・菊池は、治療を放棄し、「病を癒す女」を探すため、神戸へ移り住む。
 がんに侵されたのは、運命か必然か。未知の土地、これまでの生活とまるで異なる時間の流れに身を置き、菊池は体内にがんを生み出した「もう一人の自分」の声を聞く。
 死に向かう人間の直感、思いがけない出会いの導きに翻弄されながら、偶然のひとつひとつが結びつき、必然へと姿を変えていく。やがて、彼の目の前に描き出される「神秘」の世界。その景色の中に求めていた答えを見つけ、男は新たな人生を歩み出す。渾身の最新長編小説。

《本作について》
 すべてを失ってもなお、人は生きたいと願うのはなぜだろうか。
 この小説は、私たちにとって根源的なテーマを、「余命一年」の男の思考と行動を通して問う。
 著者はこれまで多くの作品で人と人の絆について描いてきたが、本作では家族、仕事、恋愛など社会的なつながりを断ち切った男が孤独になってようやく自分の人生と向き合い始める。
 最先端の医療をもってしても未だ決定的な治療法がない、がんというミステリアスな病をどうとらえるかも本作の興味深いテーマのひとつとなっている。主人公は『奇跡的治癒とはなにか』という本を引き写ししながら、がんを克服する術を模索する。そこには自身もがんで家族を亡くした著者の解釈が反映されている。「がんを経験した人にこそ読んでほしい」と著者は言う。
 デビューから十五年。この世界と人間の営みを明かす壮大なテーマに挑む白石文学の「集大成」というにふさわしい傑作の誕生。


設定は、
東日本大震災が起こり、スティーブ・ジョブスが主人公と同じすい臓がんで死んだ2011年から2013年。

物語の舞台が東京から神戸に移ることにも見られるように、
大震災がこの物語ではとても大きな役割を果たしている。

特に印象深かった2点について。

①  以下の下りは、これまで考えたこともない比較で、
 まさに眼からウロコだった。

 今回の東日本大震災ではニ万人近くの人命が失われ、十万人以上の人々が福島の郷里を追われたが、しかし、ほんの六十数年前、わが国は太平洋戦争でニ百三十万人の戦死者と八十万人の一般市民の犠牲者を出した。たとえば昭和二十年三月十日の東京大空襲では十万人以上の無辜の市民が殺され、広島、長崎の原爆では合計三十八万人余の命が奪われた。
 太平洋戦争三年半のあいだに戦闘員、非戦闘員あわせて三百十万人が死に、これを一年当たりに換算すれば約九十万人となる。
 当時、この国では毎年、今回の大震災の死者の実に四十五倍の人々が死んでいたのだ。つまりは一週間から十日に一度、大震災と同じだけの数の同胞たちが殺されていたのである。

……【中略】……

……巨大な悲劇がもたらす時代の空気に抗って自分の生を形作っていくことは私たちには土台無理なのだ。戦争が始まれば黙々と戦地に送られ、原爆を落とされればその熱戦に焼かれて黙々と死んでいく。ファシズムマルクス・レーニン主義が国家の支配思想となれば、その思想が作り出す粛清の嵐の真っ只中で未を縮め、ひたすら隷従と迎合を繰り返しつつ生き延びる。とどのつまり、私たちはどのような環境の中でも生きのびるだけの能力を誰もが身につけているが、かといって自分が生きたい環境下で自由奔放に生きていくほどの力量は最初から与えられていない。
 だとすると、最後は生きてさえいればいい、というに尽きる。
 こうして一年後に死ぬと宣告された身となってみると、「人間は、生きてさえいればいい。たったそれだけがすべてだ」と骨身にしみて実感する。
(p.120-121)


2年後、主人公は以下のような述懐を抱く。
(それでも原発は再稼動ばかりか輸出ということにまでなるんだけれど)

 それにしても、去年、一昨年と列島を覆った節電の大合唱はすっかり鳴りをひそめてしまった。真夏のような天気が駆け足でやってきているというのに、一基の原発も稼動させずに東京電力は安定的な電力供給を行っている。

……【中略】……

 先日、新聞のコラムで読んだのだが、全国の照明(白熱灯や蛍光灯)をLEDに替えるだけで原発十三基分の電力が不要になるらしい。結局のところ、原子力発言の命運は福島の事故の有無にかかわらずとうのむかしに尽きていたのだろうと私は思う。
(p.443-444)


② それから、内容紹介にもあるように、
 がんという病気をどのように捉えるか、というテーマの箇所。

 がんという病気は、典型的なイメージ先行型の病気である。……

……【中略】……

 今の私がそうだ。八月二十四日に末期の膵臓がんと告知されるまで、私は自身が生命の危機に陥っているなどとは露ほども感じていなかった。腹の中で増殖していた膵臓がんの「初期」も「中期」も「後期」もまったく知覚できなかったし、そして、ここからがまた不思議なのだが、すでに「末期」と告知され、あと一年の命だと教えられた現在も、依然として私の身体はその危機をほとんど察知できずにいるのだ。早い話、忙しさにかまけてあのとき検査をすっぽかしていれば、私はいまもって自分が致命的ながんに冒されているということに気づかないままだったろう。

……【中略】……

 たった今も、私はがんという病気そのものではなくて、自分が末期がんであるというイメージに負けているのだった。
(p. 221-222)


がんから逃げても仕方がない。がんから逃げるのは、登山家が登山そのものを放棄するようなもので、がんの治癒自体を諦めてしまうに等しい。だからこそ、医師という頭脳明晰な専門家集団が、いくら手術や放射線治療抗がん剤などでがんをやっつけようとしても、がんは容易には消えてくれないのだ。彼らのやっていることは、登山家の前から山そのものを取り除こうとするような、ひどく無意味で明らかに無謀な試みだからだ。
 がんが治るというのは、がんから逃げおおせるということではなく、言ってみれば、ガンのもう一つ別の顔を見つけるといった、我々が現在認識しているよりもはるかに哲学的、散文的な現象なのではあるまいか?
 私はだんだんそのように考えるようになってきていた。
(p. 282-283)


 がんは、がんだと診断を受けて初めてがんになる。
 いまこの世界で元気に生活している無数の人たちの中に、実はたくさんのがん患者が潜んでいる。あるとき、彼らはちょっとした不調や定期健診のために病院に行き、いきなり「あなたはがんです」と宣告される。
 そこで、彼らは初めてがんになるのだ。
(p.511-512)


このあと、主人公は、
しかし自分のように末期がんと宣告されてしまった場合には、どうすればいいのか、と問い、

愛読書となった米国医師の著作の事例からサバイバーの
「私は百歳まで生きることに決めて、何もかもを神様にお任せしたんです」という言葉を経て、
マタイによる福音書第二十五章のイエスの言葉に至る。

その最後の下りは

 まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う――わたしのきょうだいのなかの、最も小さい者のひとりにあなたがしたことは、わたしにしたことなのである。
(p.514)


主人公はここで、
これまで常に「施す者」の側に自分を置いてものを考えてきた、と気づく。

 よくよく考えてみれば、私たちの人生はいつもいつも、誰かに食べさせ、誰かに飲ませ、誰かを住まわせ、誰かを見舞い、誰かを慰めることばかりで費やされていく。……

 私にしても、赤ん坊の頃はいざ知らず、長じてからは誰かに「何もかもお任せ」したことなどただの一度もなかった。人間たるもの、そんな無責任は許されず、そもそもそうやってすべてを委ねることのできる相手などこの世に存在するはずもないと私たちは幼少期から教え込まれていく。
(p.515-516)


でも、と主人公は考える。

 施す者と施される者とを分け隔てるのはそうした生命観にほかなるまい。
 だが、聖書の中でイエスははっきりと、「最も小さい者のひとり」にすることは「わたし」にすることだと語っている。だとすれば、施すものだけが祝福されるといった考え方は間違っている。むしろ施される者こそが祝福されるとイエスは言っているのだ。
 ある存在に自らのすべてを委ね、明け渡すとき、私たちは「私」ではなくなる。自分自身を何かに完璧に預けたとき、「私」はもはや存在し得ない。それは自体の区別をなくし、施す者と施される者との境界線を消去する。
(p. 516)


ここで作者が主人公に考えさせていることは、私には、
例えば、こちらのエントリー紀野一義氏が以下のように表現する
「ギリギリのところまで追い詰められた時、自力の心が他力へと翻る」ということを思い出させるし、

人間のぶざまさ、足りなさ、恰好の悪さ、どうしようもなさをしみじみと思い知ったとき、もう大きな力に促されるままに生きてゆくほかないな、という自然法爾(じねんほうに)の世界につながってゆく……


また、
「死ぬ権利」議論に対して考えてきた「むしろ我執を手放すこと」という逆の方向性、
たとえば、以下のエントリーなどで考えてきたことに重なるように思えた。


で、このエントリーを今回、改めて読んでみたら、
永嶋氏の論文の中にも「最も小さい者」が登場していて、ちょっと驚く。

全く無価値だと本人も回りの人たちも思っていたような貧しく弱い人々に彼女(spitzibara注:マザー・テレサ)は手を差し伸べ、彼ら・彼女らに神聖を見ていた。彼女の見ていた「最も小さい者」のうちの神聖ほど、「人間の尊厳」という表現でわれわれが理解するものに見事に合致するものはない。


それから、もう一つ、「施す者だけが祝福されるのではない」ということを
ケア関係の中においてみると、

いつかツイッターでつぶやいてみた、
全面的に誰かの身体を委ね委ねられる関係の中にある豊饒のことを思い出した ↓


こういう文脈においた場合、
「施す者だけが祝福されるのではない」という考えは
「ケアの倫理」にも通じていくんじゃないか、という感じがする。

ただ、最後の3行の
全面的に委ねることによって「私」が存在し得なくなる、という箇所については、
存在し得ないのは、「施す者」のプライドで「自力」の側に立っていた「私(我)」であって、

他力に翻って、誰かにすべてを委ねても
それで「私」そのものが存在しえなくなるわけではないんじゃないかと、

私としてはちょっと疑問があるんだけれど。


アマゾンのレビューを見ても、
あまりに偶然が重なっていく最後には抵抗を覚える人も多いみたいだけれど、
実際、「まるで仕組まれたかのような、必然としか思えない偶然」を
私自身これまで何度も体験してきた。

実は、
この本の書評は年末だったかに新聞で読んで
そのうちに読んでみたい本として付箋をつけてチェックしつつ忘れていたところ、
こちらのエントリーのコメント欄で書いたように
年が明けてからkar*_*n28さんから教えてもらった獣医師の論考で
マルセルの「神秘」が大きなキーワードとなっていて、

こういう「偶然」があると、そこには何か意味があるような気がしてくるから
そうだ、あの本はやっぱり読んでみよう、と図書館にリクエストを出しに行ったら、
書評を読んだ年末にネットでチェックした時にはなかったはずなのに、
ちゃんと本棚にあったので、感激しつつ借りて帰った。

その獣医師の論考の文脈では、なぜ「神秘」なのか、という点は
いまひとつ私にはしっくり来なかったのだけれど、
この本を読んで後には、あれはやっぱり「神秘」がしっくりすると思えてきて、
その疑問を持った私に、この本が回答として差し出されたようにも思えてくるから面白い。

こういう「必然のような偶然」の体験がけっこうたくさんあるのは
たぶん私だけではないだろうし、

そういうことについて
「まるで仕組まれたかのような」「必然としか思えない」と感じる感性が、
人智をはるかに越えた何か」の存在を前提していて、
すでにして宗教性を帯びているのかもしれない。

実際、科学だけではこの世の中で起こることを説明し尽くすことなどできないと
私たちはみんな思っているし、

だから、そこは
この作品のタイトルがずばりで、「神秘」。

改めて考えてみれば、なんともベタなタイトルではある。



この本に出てきた「人と防災未来センター」。
次に神戸に行ったら、覗いてみようかな。
http://www.dri.ne.jp/wordpress/index.php/access