劇団(変態ではなく)態変の機関紙「イマージュ」2月号から

ちょっと前に、某所で、ある人から
劇団態変の機関紙、「イマージュ」の2015年2月号をいただいた。

(白状します。これをいただくまで、
私は劇団変態だとばかり思いこんでいました。ごめんなさい)


そこに、第62回公演作品の『試験管』について、
「態変表現の、科学する試験管」というタイトルの金満里さんの文章が
掲載されている。

その冒頭。

 人類は宇宙の摂理にとって必要とされているのか否か、という大命題に向かわざるを得なく、私はここ3年くらいの自分の作品で追求している。

 それはある意味、二進(にっち)も三進(さっち)も行かない、これまでの文明発達や経済発展の行き着く先、が眼前に迫る時代に来たという強い自覚である。

これは私だけでなく、冷静に現実を見ようとすると、そうでしかない、ということぐらい誰でもどこかで気づいていることだと思う。

にも拘らず、大多数を装う情報操作で、まだ発展があるかのような幻想へと我らの日常は覆い尽くされ、邁進するポーズを求められ予定調和的にOK!を、演じさせられている社会しかないのは、なぜなのか。

もうたくさんだ! 心の中では叫んでいるのかいないのか。


まったく、そうでしかない、ということくらい、
例えば以下のエントリーなどで書いてみたように、



私みたいな素人が、ちょっとブログをやってみただけでも
とっくに気づいたことなんだけど。

「もうたくさんだ!」と心の中で叫んでいる人、多いと思うのだけど。

今の世の中の空気を考えると、そうでもないのか……。


で、その後半。

……今悪者のように見られている科学は、それを扱う人間がたまたま悪いやつでそいつに間違った方向に使い始められたある瞬間があった、のだと。毒を以って毒を制する、という言葉がある。妙薬口に苦しともいう。

 そんな風に科学のボタンのかけ違えられたその瞬間を、逆に辿ってみるような科学があればどうなのだろう。これが必要だったのかもしれない。

(中略)

 誰もが自分のフィールドで科学していいし、科学的思考も行うべきなのだ。

 ならば、私は態変の舞台でやる。

(後略)


ところで、
冒頭にリンクした劇団態変のサイトの
プロモーション映像に引用されている金満里さんの言葉が、
これまた、すごい。

障害者は世に在ってはならない存在と
されてきたと思うんです。
  そういった実感から翻って、
   命への祝福ということを
   障害者は背負っている。
その身体が故に抹殺されようとする
身体障害者は、逆に、その身体そのもので
    人間の根源的なものを
   表出させなければならない。
       金満里