松繁卓哉著『「患者中心の医療」という言説 患者の「知」の社会学』 1


前にbycometさんがブログで紹介しておられた時にも
興味を引かれたことを思いだして、どうしても読みたくて、

でもアマゾンでは品切れで、
発売先の有斐閣に電話しても、出版元の立教大学出版会に電話しても品切れで、
ぐぇぇ、読みたい読みたい読みたい読みたい……と思いつめていて、
ふと気づいたら、地元の図書館しかチェックしていなかったので、
そうだった、そうだった、と県立図書館の検索をかけてみたら、
なんだぁ、あったよぉぉぉ!! 

というわけで、久しぶりに焦がれるように読みたかった本が、やっと手元に。

大事に大事に、舐めるように読んで、2日で読了。付箋だらけ。

この本が言わんとしていることの中心的な部分を
Spitzibaraなりの表現で独断的にわしづかみにしてしまうと、

医療専門職が模索し、実現し、患者に提供しようとする「患者中心の医療」ってのは、
その発想が既にして「患者中心」ではない、ということだと思う。

これ、私自身が何度かブログで書いてきた言葉で言うと、
「医療について分かっているのは医療職だけなんだから
医療については医療職が考えて決める専決事項」という感覚のこと、
その感覚を疑うことなく土台に据えて云々される「患者中心の医療」という言説のこと。

そういうのに対して、昨今、
「病ある生をいきる」ということの「専門家」は医療職ではなく、
慢性的な病気や障害のある、自分たち当事者だとして、
患者の「知」の専門性を主張する声が患者サイドから出てきている。

で、著者が解明しようとしているのは、
それら患者の「知」を、医療専門職があくまでも科学的専門性の高みから見下し、
生物医学的な基準で「評価」しては、「非科学的」「事実誤認」などと切り捨てかかる
現状とその問題点

それに対して、
本当の意味での「患者中心の医療」はそこの主客が逆転しなければ実現できない
という問題提起と、

そのために、
いかに患者の「知」とその専門性を認め、
いかにしてそれを「専門職の専門性」と対置させ、
いかに相互の「折り合い」をつける方策を見つけ出せるか。

それを通じて、いかに本当の意味で患者を主体として中心に据えた
「患者中心の医療」を実現できるか、という考察。

著者はその可能性の一つを
英国のExpert Patient Program(EPP)に見ており、
EPPを巡る考察を軸に議論が展開されている。

EPPについては、
介護保険情報』の5月まで9年間やっていた連載で書いたことがあります。
「エキスパート患者プログラム」英国(2014/9/9)

私自身は、この時に公式サイトなどをチラ見しただけだし、
著者が調査した段階から英国の政治経済事情が異なってきて
EPP自体が著者の調査時からは変質している可能性もあるだろうけど、
多少、「医療経済的な要請から、医療行政にとって都合のよい“自律した患者”を
安上がりに育てようとする目論見」みたいな空気も感じた。

ちょっと、「介護者としてより良く機能できるための介護者支援」に近い匂いというか。

でも、著者ほど深くEPPについて知っているわけでも
まして分析的に調べたわけでもないので、
こうしてみると私が書いたのは、ただの「感想」レベル。

そのEPPの記事の冒頭でもちょっと書いているように、
私自身、EPPの重症障害児の親版みたいなのをイメージして
娘の施設の母子入園担当者に提案し続けて、何度か、
そういう場がセッティングされたことはあったけど、
意識の高いスタッフ一人がいなくなれば、それで終わる。

『海のいる風景 重症心身障害のある子どもの親であるということ』で書いたように、
娘のいる施設のスタッフに向けた研修会の講演で、
親はその子の親であることの専門家、本人はその人自身であることの専門家なのだから、
チームの一員として尊重してほしい、とお願いしたことがあるし、

昨年秋の重心学会のシンポでお話させてもらったことも、
医療と生活の関係性という問題を中心に、そういう趣旨のことだったと思う。

障害のある子どもの親になって以来ずっと、
いわゆる「専門家」の専門性の独善と横暴に対して、
当事者の専門性を意識し続け、訴え続けてきた気がしているので、

とても共感しながら読んだ。

アシュリー事件と出会って以来、
医療職やアカデミズムの方々から、何かというと
「専門的な知識のない素人のくせに」「お前なんかに何が分かるか」
といわんばかりに見下される体験を重ねてきたけれど、

そのたびに傷つきながらも、少しずつ、
冒頭にリンクした7月のエントリーで書いたようなスタンスを獲得してきた。

「海の母親」としての28年近くの経験と、
その母親がたまたまアシュリー事件との出会いからブログや仕事でやってきたことや
そこから考えてきたこととの間を、あくまでも
私という「生身」を離れることなく行きつ戻りつしながら、

その「行きつ戻りつ」の中で私自身がその体験や思いと誠実に向き合い
そこから自分の「生身」に正直な言葉を探し出して訴え続ければ、
正統性とも科学的な専門性とも無縁であっても、
その言葉は届くべき誰かには届く力を持っていると、
信じたい、と改めて考えました。

それが「当事者の専門性」というものだと
私は堂々と主張していたい、と思うから。


今また、このスタンスを打ち崩されるような個人的な体験が続いて
立ち直りに時間がかかっているだけに、癒しの作業も兼ねて、
この本に書かれていることを、丁寧にメモしていきたい。


次のエントリーに続きます。