松繁卓哉著『「患者中心の医療」という言説 患者の「知」の社会学』 2: 序章

前のエントリーからの続きです。


「患者中心の医療」が言われるようになってきたが、
その曖昧さに著者は冒頭、四つの疑問を呈している。

1. 「患者中心」とは具体的にどのような状態を示しているのか。
2. 「患者中心」を実現するために専門職従事者がなすべきことは何か。
3. 「患者中心」を実現するために患者自身がなすべきことは何か。
4. 高度な医学の「専門知識」と「患者中心」というコンセプトは、
どのように折り合いがつけられるのか。


この4の「折り合い」について検討される取り組みは
自分の知る限り皆無だと著者は指摘する。

その不在を象徴する出来事として著者が挙げるのが
MMR三種混合ワクチンをめぐるウェイクフィールド論文事件。

この論争について、著者は次のように捉える。

安全性をめぐって混沌とした状況下にあって、混合ではなく選択的に一つひとつの予防接種を子どもに受けさせることに安心感を覚える、とする親たちの意見表明が高まりを見せたのに対して、保健医療当局の「専門家」はMMRの安全性を繰り返し表明し、親たちの見解表明を封じた(Bury 2003:1)。……一連の議論は「何が医学的に正しい情報なのか」という観点に終始しているわけである。言い換えれば「専門家―素人」という二項区分のもと、前者(科学・医学)が「正しい」と規定する情報のみが追及されていったがために、後者(この場合は親たち)においてどのような合理的価値判断が働いたのか、という点に目が向けられる機会が軽視されてしまった。結果として親側の主張は、前者からの視点により「非科学的」「思い込み」「事実誤認」としてのみ性格づけられ、それ以上の解釈がなされなかった。(p.2-3)


つまり著者は、親たちは「ワクチンは打たない」といったのではなく、
「3種混合ではなく、1種ずつを打ちたい」と主張したという認識に立っている。

私はこれまで、ウェイクフィールド事件については
「ワクチンが自閉症の犯人」説で親がワクチンを危険視し打たなくなったが、
ウェイクフィールド論文は大デタラメだった、という物語ばかりを聞いていたので、
英国の親たちの主張は「一つずつ打ちたい」だったというのは
目からウロコだった。

そういえば私も、
2010年に米国の親のワクチン不信について連載で書いた際に、
米国の反ワクチン運動の闘士の「ワクチンが病気を予防する
素晴らしい発明だということを疑うわけではありません。
ただ、1つ1つの安全性は検査されていても、
複数接種についての検査はないのです」という言葉を拾っている。

その記事では、
親たちのワクチン忌避の背景にあるのは
個々のワクチンへの不信とか、未だにウェイクフィールド論文の影響下にあるというよりも、
むしろ、ビッグファーマと行政や研究者との癒着スキャンダルを背景にした
製薬会社の人命軽視の利益優先や医薬行政への不信なのではないか、と
疑問を投げかけてもみた。

でも、今なお、
科学とテクノの簡単解決利権に汚染されていたりいなかったりするジャーナルでは
あたかも現在の親たちのワクチン忌避はひとえにウェイクフィールド事件の余波であって、
あの論文が如何に誤りだったかさえ論証すればワクチンへの不信は払拭されるかのように
当該論文が抹消された後にも、せっせと「ほら、やっぱり誤りだった」と論証する論文が
書かれ続けて、

ワクチン拒否の親は「デマに躍らされるバカな素人」としか受け止めようとしない
姿勢が強固に続いている。、

すなわち松繁氏が言うように、

……事態収拾にあたった保健関係者・医師の認識に「『素人判断』=危険」というシンプルな図式があり、それゆえに、科学的に見た時の「正誤」問題一辺倒で収拾策が展開された……今日の社会において自然に生じる「安全性」をめぐる多様な価値認識について、これを微細に解きほぐした上での保健指導が展開されたとは言えず、むしろ、公衆衛生的使命感によって「デマ」を排除する、というスタンスが貫かれたと言える。
(p. 9)


……「科学―社会」の二者を巻き込んだ議論の中で「なぜ親たちは三種の混合よりも、選択的に一つひとつの予防接種を望むのだろうか」という問いは、ついに投げかけられることはなく、「事実誤認」「非科学的」など二項の前者(科学)の論理により徹底的に大衆サイドの見解が否定されることで論争の収拾が図られた。
(p.19)


このような単一的な価値基準から「正誤」が断ぜられる事態は、日本においても新しい治療技術や医薬品の安全性に関して専門家集団と社会との見解が対立するさまざまな場面においても散見されるのではないだろうか。
(p.3)


これは、まさに日本のHPVワクチン論争でも繰り返されている構図だし、
つい最近も、こういう論争がネット上で起きて、やはり同じ構図が繰り返されている。
http://igcn.hateblo.jp/entry/2015/08/29/144000

また、昨年の重心学会のシンポ体験からこちら、
医師にとっては「自分がやりたい医療を親が拒否してやらせてくれない」と捉えられている
意思決定のジレンマの問題設定のあり方が、
親にとっては「やってほしいことを医師がやってくれない」というジレンマとして
感じられていることのギャップのことをぐるぐると考えながら、

それは意思決定が必要になった「(時)点」の問題なのではなくて、
実はその手前の、いわば「線」のところ、日常的な医療の場面における
以下の問題などをその背後に秘めているのではないか、と
掘り下げてみたいと思っているところ。

①	医療職と親との間に「専門家が無知な素人を指導する」構図
②	施設だから「医療についての説明は無用」がデフォルト
③	医師が必要と感じた時だけ「一方的に医師の意思決定が親に言い渡される」IC
④	医師は生活の場に「くる人」であって「いる人」ではなく本人のことに無知
⑤	生活の場であることへの無理解・問題意識の欠落
⑥	そこに見られる医師の「総合病院のヒエラルキー文化」
⑦	「生活」と「医療」の関係性の捉え方のギャップ


そう考えると、
単に「いかにワクチンを打たせるか」とか「いかに抗がん剤治療を受けさせるか」
「いかに医師が正解と考える選択肢へと重心児者の親を振り向けるか」など、
「点」で起こっていることの医学的な「正誤」ではなく
「なぜ」という視点への転換が必要なのではないか

「なぜ彼らはそういうことを言うのか」という問いを通じて、
「医療の問題」とされていたことの「生活や人生や生きることの問題」としての捉え直しが行われ、

その「なぜ」の背景のうちに問題の本当のありかを探り、発見し、
それにいかに対応すべきかが考えられるなら、

その方向性はおそらくは「医療専門職や医療そのもののあり方」を問い直すというところへ
行き着くはずだと思うし、

それは同時に、「専門家―素人」の関係性を見直し、再構築し、
両者間の信頼関係を強化する方向に議論が向かうことができるはずだと思うのだけれど、

すなわち、患者サイドの意思決定を変えられる可能性のある医療サイドの対応があるとしたら
それは上から目線の「判定」ではなく「共感」であり「理解」の姿勢だろうと思うのだけれど。

だから、
親のワクチン・医薬行政への不信をもたらしている問題構造について
医療専門職側が親たちともに理解を深め、問題意識を共有する姿勢をもち、
そうした腐敗構造を自らに問いなおす姿勢をもつこと、

心施設の医療をめぐる日常のICのあり方を根本から見直し、
「生活の場」での「生活を支える脇役としての医療」のあり方を
医師が親や他の専門職と共に考え、模索し、
それを通じて医療のあり方そのものを問い直す姿勢をもつことが
根本的な問題解決への一番の早道ではないか……
(というようなことを、ここしばらく書こうとして書きあぐねて苦しんでいる)

でも、実際には、上記のどの議論においても、むしろその反対に、
「医学的に正しい解はなにか」「誰が正しいのか」という
しごく非生産的な「判定」や「勝ち負け」の議論に終始して
医療の権威に対置される側を「正しくない」「無知だ」「愚かだ」「危険だ」と
問答無用の力づくで叩きにかかる。

その、ほとんど医療界あげて叩きつぶさないではおかないというほどの反発の激しさに、
私は、そこで問題になっているのは実は「正しさ」ですらなく、
「医療専門職」や「医療」の権威の不可侵性ではないのか、と感じることが多い。

医療の専門性はそれほどに不可侵でなければならないと
医療専門職の権威を守りたい人たちは信じているし、
それを脅かす者に対しては集団的敵意とでも言えるものが呼び覚まされるんだな、
と感じることは、世の中の議論においても個人的な体験においても少なくない。

だからこそ、
自らのあり方を問い直すという方向に向かうことを断固として拒否し、
相手と敵対し、全否定し、徹底的に打ち負かそうとしてかかるんじゃないだろうか。

でも、そんな「どっちが全面的に正しいか」という「勝ち負け」の議論からは
何も建設的なものなど生み出されないのに。

例えばビーダマン事件やSSRIをめぐるスキャンダルで判明したような
研究者と製薬会社のあからさまな癒着とデータの改ざん・隠蔽があるのが現実だとしたら、
それは臨床現場で使われてきた診断ツールが不正操作されていたということなのだから、
臨床現場の医師こそ腹を立ててもいいはずだと私はいつも思うのだけれど、
多くの医師は、むしろ、そうした情報を云々する患者を非難する側に回る。

そして、その結果、
エビデンスのない(あるいは偽られた)「医学的正しさ」を空しく振りかざして
不当な利益のために「医学的正しさ」を偽る人たちを擁護することになってしまったりする。

同時に、患者に対して
「医学的な正しさ」=「医療の権威」を疑うなんて、けしからん、
あくまでも無条件に「ひれ伏せ」と求めている。

それなら、本当は医学的な「正しさ」を問題にしていないのは
実は医療専門職のほうではないんだろうか。

そもそも、個々のワクチンをめぐる様々なエビデンスや導入の背景について検証することなく
「ワクチン」全般を「安全」「有効」として疑わない姿勢そのものが、
既にして科学的ではないと私は思うんだけど。

例えば、
HPVワクチンの副反応の解明に当たっている医師の一人横田俊平医師は
ここで、以下のように書いている。

少し勉強してみると、小児科医は「予防接種の専門家」として高みに登っていなかったか、個々の予防接種に求められる要件は違うはずなのに、全体として「免疫を高める」ことでへんに納得してしまっていなかったか(専門分野を問わず)、とくに感染症を専門にしている小児科医はIgGの役割、粘膜ではIgG は protease で破壊されてしまうので、生体はあえて分泌型IgA を作り出したことをもっと勉強しておくべきではなかったか、など悔いることばかりです。


わずかに、厚労省が「予防接種検討部会」を年に数回開いています。このときの資料がインターネットで入手できます。部会の判断とは別に、生データが一応(問題はあるのですが)、出ていますので、プロフェッショナルはそのデータを自分で解析して判断するべきなのです。実は、ヒブワクチンと肺炎球菌ワクチンの問題はこのようにして「おかしい」と気付いたものです。子どもさんに予防接種を行うプロたちは、ここまでやって初めてプロの責任を果たしたことになるのだと思います。


でも、多くの医師は
ワクチン全般の安全性を疑うことに対して激しく反発し、
「医学的知識をもたない素人がバカな判断をしている」と嘲る。

それなら、そこで問題されているのは実は「科学的な正しさ」ではなく
医療職や医療そのものの「権威」の不可侵性なんじゃないんだろうか。

そして、そうした医療専門職の、実はとても素朴な権威主義
科学とテクノでコントロール幻想バンザイの
グローバルな強欲ネオリベ人でなし金融(慈善)資本主義の利権構造によって
体よく取り込まれ、利用されて、事態をさらに悲観的なものにしている。

著者は、ネオリベラリズムの問題にも触れてはいるものの、
本書の議論のテーマは、あくまでもそうした医療専門職側の構えの解体の方途としての
患者の知の専門性の確立への模索の可能性のようだけれど。

             ―――――


その他、序章で興味深いと思った言葉の問題についてメモしておくと、

「医療」が「医学・医学地が実践される場」が想定されるか、
それとも「患者が医療者と向き合う場」として位置づけられるか、によって
理解に幅がある、という点。

本書ではひとまず後者としての「医療」

また、二項区分の問題として、
「専門家―非専門家」「医師―患者」「科学―社会」
「disease(医学的に説明されるもの)- illness (社会・文化・政治の産物)」

このような二項区分に対して、社会的・政治的規定要因の存在を見出すことで、その妥当性を疑う姿勢が当然必要とされるだろう。「医学」によって説明されるものを「disease」、生活者(「素人」)の経験世界が構成する意味体系を「illness」とするに抗区分は、社会学・人類学・看護学・医学ほか、今日あらゆる学問領域の今日本塁に置いて記述が成されてきている。……しかしながら、健康と病をめぐる今日的状況を適切に捉えるだけの説明力を問われている。
(p.16)

A. Young(1982)は双方をまたがる事象を説明するツールとして
sicknessという概念を提唱している、とのこと。


次のエントリーに続きます。