ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読メモ  2: 第3章

第3章は、
重篤な障害または病気を持つ新生児の救命と生命維持をめぐる「無益な治療」論がテーマ。


きわめて未熟だが救命の可能性はある新生児の出生に際して、
安らかな看取りを選ぼうとする両親の意向を無視して
医師が一方的に蘇生を始めてもよいと(p.97)テキサス州最高裁が判断した
シドニー・ミラー事件と、

逆に、病院が生命維持中止を決め、親がそれに抵抗したエミリオ・ゴンザレス事件
2つがこの章の事例研究。

「無益な治療」をめぐる意思決定という問題は
そのまま「重心児者の医療をめぐる意思決定はどうあるべきか」という
私たち自身のリアルな重大問題でもあり、

日本の「尊厳死」議論は実はパターナリズムが色濃い「日本版・無益論」なのでは?
考えている私にとっては、これは「尊厳死」問題ともダブってくる問題。
(もともと私は「無益な治療」論は「死ぬ権利」議論と表裏だと考えてきた)

それを踏まえて、
生命倫理学と障害者サイドの両者が「無益な治療」論で最も対立する点をウーレットが
「治療中止をめぐる親の決定権の範囲」(p. 102)と分析しているのは、
この見方そのものが、私には、医療の感覚に傾斜しすぎているのでは、と思える。

そもそも「無益性」概念は有用なのかという議論について、アーサー・カプランが、
「医療専門職の職務完結性(インテグリティ)と患者の自律の権利との対立」(p. 120)
と捉えているのが象徴的だと思うのだけれど、

私には、「無益な治療」論というのは、患者の自己決定権に対して、
「ただし、その決定権が行使できるのは医師が認める範囲内でのみ」と制約をかけ、
決定権と医療の専門性という権威を医療サイドが取り戻そうとする議論のような気がする。

それが「インテグリティ」という言葉にくっきりと表れている。

医師がその専門性において決められるのでなかったら、
専門職である医師のインテグリティが傷つけられるではないか、と。

例えば、ラスーリ訴訟で、治療の中止にも同意が必要と判断された際に、
「生命維持停止に同意なんて医師の権威を損なう」と反発が出たように。

例えば、ノーマン・フォストが「無益な治療」判断では裁判所にお伺いを立てるな
医療のことは医師が決めるのだ、と医師に激烈なゲキを飛ばしたように。

だとすると、個別の争議や対立では、当然のことながら
今でも日本の医療現場の一部がそうであるように、
「専門性の高さという印籠」が一切の異論を封じてしまうのは必至とならないだろうか。

実際、米国でも、裁判にでも持ち込むかメディアの注意を引かない限り、
医療現場ではそうなっているんだろうと私は推測している。

そこで、以下の一節がこの章の中でとりわけ重要に思えてくる。

生命倫理学には「無益性」は有用な概念であるとのコンセンサスができていると考える人がいるかもしれないが、そう考えるのは間違いだろう。
(p.120)


それから、以下の一節。

無益性とは、ある意味、医師の切り札なのだ。医師には無益な治療を提供する義務はなく、実際問題として彼らは毎日、無益であることを理由に、要求された治療を断っている。向こうまたは不適切な治療を医師に免除する法律を別途作っている州や、そうした方針を特別に定めている医療機関もあるが、ほとんどの州や医療機関にはそういった仕組みはない。法も方針もないところでは、「無益性」の意味や意思決定のツールとしてのその運用は、病院によっても個々の医師によっても大きく異なっている
(p. 112 ゴチックはspitzibara)


しかし、法律があるといっても、例えばテキサス州の無益な治療法TADAですら、

テキサス議会は、医療提供者が治療の提供を拒んでもよい状況を個別に定義する努力を放棄して、治療が医学的に見て妥当かどうかの判断を医学的アセスメントにゆだねているのである。
(p. 119)


つまり「医学的無益性」判断による治療の差し控えや中止には
法的根拠にも科学的エビデンスも保証されていない、ということだと思う。

したがって、障害者コミュニティから見れば、
キャロル・ギルがいうように、

障害のある人々自身による実際のアセスメントに比べると、医療専門職は障害のある人々のQOLを著しく低く評価する。
(p.113)


ということが現実として起こるし、

これは例えば13、18トリソミーの子どものQOLについて、
医師と母親とでは受け止めが違うというアニー・ジャンヴィエらの調査でも
明らかになっている。

その要因として、障害学者のジェイムズ・ワースは以下のように指摘する。

どういうQOLが生きるに値しないかについて、自分自身の価値観を投影させる医師たちの判断には一貫性がなく、恣意的で公平さを欠いている可能性がある。
(P. 113)


「無益な治療」論と医療資源配分との関連についても、

 たとえセーフガードがあったとしても、決定要因となっているのは医師の価値観なのである。
(p. 113)


TADAについても、

……『QOL』を理由に重症障害のある人からいくらでも生命維持を差し控えたり中止したりしてよいと言っているようなもの……
(P. 117 National Catholic Partnership on Disability)



それでは、無益論とは、
実は個々の「医学的無益性」判断には法的・科学的エビデンスが保証されないにもかかわらず、
医療サイドが包括的かつ抽象的な「専門性の高さ」を持ち出して、それに対して「ひれ伏せ」と命じつつ、
医療職のインテグリティを守るべく異論を封じるツールにもなりかねないのでは?

にもかかわらず、

 医療専門職の意思決定に障害への偏見があるというエビデンスを医学と生命倫理学がまともに取り合ってこなかった……
(p. 124)


そんなふうに一方的に「聞く耳持たず」の不誠実な態度で声を封じられ、
尊厳を傷つけられてきた体験の積み重ねこそが、障害者サイドの「怒りの話法」の背景だと
ウーレットが考察している第3章の「所感」部分は、まさに本書の要諦でもある。

問題は、法廷以外の場所では、彼らの声は聞いてもらえず、まともに相手にもされないことだ。そのために彼らはメディアで注意を引こうと大きな声を張り上げ、抗議するのである。そのメッセージの形態に目を奪われず、その向こう側にあるものにまで目を向けてみれば、哲学教育を受けた私の件の同僚(spitzibara注:あんな連中と関わるなとウーレットに忠告した人物)だって、いったいどうしてこの人たちはこんなに腹を立てているのか、と問うてみるくらいできるのではなかろうか。実際、それを問い、そしてそれに対応すべく行動を起こすことは生命倫理学者に課せられた義務だといってもよいくらいだ。歴史的に阻害され虐待されてきた人々が言いたいことを聞いてもらうために大声を張り上げざるをえないからといって、その事実によって彼らを軽蔑するのではなく、それを警告として受け止めなければならないのだ。すべての立場の人が言いたいことを聞いてもらえて、すべての関係者の利害関心が尊重されて初めて、敬意ある議論が可能となるのである
(p. 124-125)


トゥルーグの以下の言葉も、引いておきたい。

医師は「相手が間違っているという確信がある場合でも、他者の選択を許容する自分の許容度を高める努力をすべきである」
(p. 122)


このあたりが私にとって本書の要諦のような箇所だと感じられるのは、
それが私自身の個人的な体験と重なるからでもある。

それについては、こちらのエントリーに少し書いたけど ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/64833269.html

ウーレットが障害者運動の「怒りの話法」の背景にあると指摘するものは、
医療事故被害者や、日常的な医療現場で患者や家族が感じているものと
実は同一なのではないか、という気がしている。

そうした「怒りの話法」へと障害者や家族、医療事故被害者や家族を追い詰めるものは、
上記のように、法的・科学的エビデンスすら保証せず、
専門性の高さを印籠に強引に異論を封じてでも医療専門職のインテグリティを優先させる
医療のある種の「文化」なんじゃないかなぁ、という気もしている。

それは、

上のリンクにも書いたように、
生命倫理学者のポウプが、自分達のシンポを批判しているNDYのドレイクを
同じ土俵での議論に招くのではなく、「聞きに来るんだったら朝食をご馳走するから、
どこが悪かったか聞かせてくれないかな」と誘った態度に見られるような
無邪気な不遜かつ傲慢な意識を支えているものであり、

安藤泰至先生と打出喜義先生が『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』第12章
「悪しき医療の文化」と称されているような、医療の一面でもある。

お2人はそこで
医療事故死遺族としての体験をもとに新葛飾病院で
セーフティ・マネージャーとして活躍する豊田郁子さんの三原則
「うそをつかない」「情報を開示する」「ミスがあれば謝罪する」を挙げて、

そうした新しい医療の文化を、
医療者や病院と患者や家族(遺族)が「共に創っていく」ことが重要であるが、
後者は医療において常に「弱者」であることを踏まえ、
前者により多くの努力と責任が課せられる、と主張する。

これこそ、ウーレットがこの本で主張していることそのもの。

ウーレットは実は、本書の考察においても無意識の内に
権威ある「学」の側寄りに身を置いていたり、
医療や生命倫理学のものの見方に「埋め込まれ」ているままに、
ものを言っていることが多く、

そのことには無自覚なまま、自分は弱者の側に立って強い側に物申していると思い込み、
それと同時に(そのことによって自分を免責してしまい)、
生命倫理学の側に立つ自分を問い直す視点を放棄してしまっているので、
その甘さは、本書のあちこちで露呈しているのだけれど、

問題解決の糸口として、誠実な「対話」を呼びかけ、
そこにおいて強い側である生命倫理学にこそより多くの努力を求める
ウーレットのメッセージには、大きな意味があるとも思うし、

彼女が同僚に呼びかけている、
「いったいどうしてこの人たちはこんなに腹を立てているのか」という問いこそが
鍵ではないか、と私は考えている。

昨日のエントリーでちょっと書いたように
この「なぜ」への視点の転換から「対話」は始まる、ということを
私は一昨年の重心学会のシンポ以来ずっと考え続けている。

その「対話」の先にしか、

最終的に決定権を行使するのは誰か、それは患者なのか医師なのか(p.121 クロスリー
という2者択一の問題設定を、

「互いを尊重しつつ共に決めるためにはどうしたらいいか」へと
問題設定を組み替えることのできる可能性は開けていないと思うから。