POLSTは米国の重症児の教育現場にも広がろうとしている



医師が終末期医療や緊急時の救命をめぐる患者や家族の希望を聞きとって、
医師の指示書として書かれるPOLSTの法制化が米国で広がっていますが、

今度は
重症児の教育現場でもPOLST遵守を義務付ける法案がミネソタ州議会に。

Minnesota Will Require Schools to Honor DNR Orders
Medical Futility Blog, March 13, 2016


もともと親からそういう声が起こる個々のケースが相次いで、
スクール・ディストリクトとの間でトラブルとなっていたようです。

例えば、昨年報道されているのはSchinzel-Giedion症候群のScaret Wagnerさん。
2歳半まで生きられないといわれていたけど、報道時6歳。

お母さんによれば、

She can't speak, she can't hear, she can't move independently, but you can just see it in her eyes, you know, she's just the sweetest little spirit


けれど、

スカーレットの身体の中で唯一健康な部分は心臓だけ で、
けいれん発作と闘い、腎臓病と闘い、次から次に薬と闘い、
最近ではスクール・ディストリクトとも闘っている

というのは、親としては
学校で万が一、心臓が止まるようなことがあったら、
静かに逝かせてやってほしいのだけれど、

学校は医療現場ではないので、
医療機関のシステムであるPOLSTを受け取ったり、
その指示に従う権限がない、とスクール・ディストリクトは対応を逡巡する。

他にもそうしたケースでトラブルが続いた事態を受けて、
今回の州法案が出てきた、という事情のようです。


スカーレットさんの主治医のインタビューがこちら ↓
Digital Extra: Scarlet's Doctor Discusses Do Not Resuscitate Orders
ABC News, November 18, 2015


私自身、親として、個々の親の気持ちは痛いほど分かる。

もし心肺蘇生で呼吸が戻ったとしても、それで救命できるとは限らず、
万が一にも蘇生で肋骨が折れたり、それが内臓を傷つけたりすれば、
わざわざ苦しい死をもう一度与えるために蘇生させることにもなりかねない。

そのくらいなら、このまま引き戻さずに死なせてやってほしい。

「○○とも○○とも闘っている」という表現に、
これまで散々辛い思いをして生きてきた我が子だからこそ、
最期くらいは余計な苦しみを与えず、穏やかに逝かせてやりたいという
思いが痛切に感じられて、胸苦しくなる。

それは、その願いが私の中にもそっくりそのまま、あるから。

でも、同時に、そこには、
「だって、これほど重い障害を持ったまま生き続けても本人が苦しいだけだから」
あるいは「だって、これ以上生き続けるのは可愛そうだから」という他にも
あからさまに語られていない思いも実はあるように感じられて、

例えば、記事タイトルに「ターミナルな子ども達」という表現があり、
文中にも「ターミナルだったり重い障害がある子どもは」という表現があることを含め、

このMN州の動きは
「無益な治療」論や「死ぬ権利」議論がお墨付きを与えていく
そうした「重い障害のある生は生きるに値しない」「治療に値しない」という価値観を、
医療現場から教育現場へと広げ、そこで追認することにつながりはしないか、と
そら恐ろしいものを感じる。

それから医師がインタビューで
「家族に承認の署名はもらいますが、
POLSTはまず第一に医師の判断であり医師の指示です」と語っているのも
ちょっと引っかかる。

POLSTの当初の理念における医師の役割は、
患者や家族の意思や希望を聞き取って、それを尊重すべく、
医療提供者に対する医師の指示として様式化する、というものだったはず。

それが、いつのまにか医師による「無益性」判断の指示書と捉えられている。
(予想も懸念もされたとおりに、というか)

そして、もう一つ、この医師の発言で気になったのは、

「医師が決めて医師が指示するのは、
ご家族に決めることの負担や責任を負わせないため」という趣旨の下り。

これ、日本のパターナリズムがずっと正当化されてきた論理ではなかったっけか。

一方、このたびの学校でのPOLST受け入れ正当化の理路は、
親がそれだけの苦しいプロセスを経て、苦しい決断に至ったのであれば、
その親の意思決定は学校現場としても尊重したい、というもの。

その2つの理路の間は、本当に隙間なく埋められているんだろうか。
そこに、ずいぶん「実は語られていないもの」があるんじゃないだろうか。

そして、本当に議論すべきことは、
実はその両者の間にこそあるんじゃないのだろうか。

だって、そこが埋められないままPOLSTが教育現場でまで法制化されたら、これは
医師による「無益な治療」判断がストレートに学校に下ろされる仕組みとなりかねない。


いつもいつも、ここのところが耐えがたいほど痛くて悩ましいのだけれど、
個々の立場や経験や思いには、理解も共感もできる。

一方、今の世の中で起こっている「大きな絵」の中で
それら個々の決断や訴えがどのような役割を担っていくか(担わされていくか)
という問題として考えると、この事態はとても恐ろしい。

後者のうねりがあまりに大きくパワフルなので、
もう無理なんじゃないか、無理なんだろうな、と私もどこかで思ってはいるのだけれど、

それでも、最後の希望に縋りつくような気持ちで
どうしても頭に浮かべてしまうのは、

後者の力動に一足飛びに取り込まれることなく、
前者の個々の痛みや悩ましさと丁寧に向き合う術が、どこかにあるのでは?

例えば、「親の意思の尊重」や「医師の指示の尊重」という問題から、
「なぜ親がそういう願いを持つのか」へと、問いを「なぜ」と転じて、
教育現場のありようや、医療との連携のありようを問い直すことによって、
別の方向から問題解決が見えてくる可能性って、
本当にないものなんだろうか――。



こういうことを考えるとき、
最近いつもキリキリするほどの切なさで思うのは、

親だって、我が子に「死んでほしい」なんて願ってなどいないはずなのに……ということ。

それなのに、私たち親は傍から見れば「死なせてやってほしい」と聞こえることを
願いとして口にしてしまう。

それは、なぜなんだろう。

私たち親の本当の思いは、本当に「死なせてやってほしい」なんだろうか。
そんなはずはないんじゃないだろうか。

それは本当は
「そう言わないではいられないほどの思いを抱えている」ということではないんだろうか。

本当は「死なせてやってほしい」の手前のところに、
「まだ語られていない」私たち親の、なかなか言葉にならない
複雑で微妙な思いがいっぱい潜んでいるんじゃないんだろうか。

それなら、私たち親もまた、

「なぜ」と問い返しながら
自分達の胸のうちにあるものと丁寧に向かいあって、
自分の本当の「願い」はどこにあるのか、
探りなおしてみることができるんじゃないだろうか。