地域医療ジャーナル「無益」シリーズ①:「無益な治療」論とDNAR指示(後)

前のエントリーからの続きです)


 読者の皆さんは既にご存知かもしれませんが、実は、bycometさんがブログ記事を書いてくださった12月16日に、まさにこの問題に関連して、とても重要な勧告が出ています。日本集中治療学会からの「DNAR指示のあり方についての勧告」です。

 これを読むと、私が『現代思想』に書き、bycometさんが共有してくださった、いわばステルスで進行・拡大する日本の「無益な治療」論への懸念が、日本集中治療学会に明確に共有されていることが確認されます。私には、ここで指摘されている実態とは先に一覧として挙げた「すべり坂」の実態そのもののように思えます。

 具体的な勧告は7点です。注記とともに一つひとつを裏返せば、「DNAR指示のもとに基本を無視した安易な終末期医療が実践されている、あるいは救命の努力が放棄されて」、DNAR指示が恣意的に拡大適用されている実態が具体的に炙りだされて見えてきます。

 POLSTについても、日本臨床倫理学会が作成した「日本版POLST」を使うべきではないと明記されています(勧告6)。

 私は日本臨床倫理学会作成の様式については知らないまま、日本で行われている「入院・入所時の、POLSTまがいの書式による、緊急時の医療をめぐる意思確認」の慣行を「日本版POLST」と総称してきたのですが、その他の勧告やそれぞれの注で指摘されているのは、特定の様式の問題ではなく、やはりそうした基準のなし崩し的な曖昧化により、恣意的な「無益な治療」判断が医療現場にじわじわと広がっている実態でしょう。

 そこで思い返されるのは、英国で社会問題化したリバプール・ケア・パスウェイ(LCP)です。

 本来はホスピスの丁寧な看取りケアを一般病院でも標準化するために作られた、それ自体は優れた臨床実践モデルだったのに、広く導入されると、一部の病院では高齢者や障害者の入院時に機械的に適用されて、しかるべきアセスメントもなく鎮静と栄養と水分の停止がセットで行われるようになりました。「まだかなり生きられる高齢者がLCPによって殺されている可能性が高い」「エビデンスもなしに始められるLCPは、もはやケア・パスというよりも幇助死パスウェイとかしてしまっている」などの批判が続出したことから、保健相が独立の委員会を作って調査させた結果、指摘どおりの実態が確認されたためにLCPは使用が禁じられました。 委員会が2013年8月に出した報告書の内容は、14年1月にシノドスというウェブマガジンに「『どうせ高齢者』意識が終末期ケアにもたらすもの―英国のLCP調査報告書を読む」と題して取りまとめていますので、良かったら読んでください。

 英国では、実はDNAR指示そのものも、この数年大きな社会問題となっています。エポック・メイキングな判例として有名なのが、2014年に判決が出たジャネット・トレイシー訴訟。

 ジャネットさんは2011年2月の初旬に肺がんと診断されたのですが、抗がん剤治療開始の直前に交通事故で首の骨を折り、病院に搬送されました。本人は一貫して自己決定能力を有していたのですが、本人も家族も知らないうちにカルテにDNAR指示が書き込まれてしまいます。気づいた家族が本人は蘇生を望んでいると抗議。一度は削除された指示は、しかしまたカルテに復活します。ジャネットさんは3月に死亡。本人も家族も知らないうちにDNAR指示が行われたことは人権侵害だと、夫が提訴しました。

 英国では、医師には無益な治療をする法的義務はなく、保健相もDNAR指示に関する方針はNHSトラストごとの判断に委ねるというスタンスでした。それまでも様々なケースで、患者や家族にDNAR指示に関して基本方針も情報も提供されていないと指摘されてきた実態が、この訴訟でにわかにクローズアップされた訳です。

 下級裁判所は医師が患者の最善の利益を判断するのは違法ではないという判断を下したため、ジャネットさんの夫は上訴します。この時、ある医師がメディアで国内の医師に向けて「無益性を判断する医師の決定権を守り通せ」と檄を飛ばしたのが印象的でした。やはり無益性をめぐる論争は、医療サイドからは「決定権は誰のものか」という枠組みで医師のインテグリティの問題と捉えられがちなようです。

 トレイシー訴訟では、2014年6月に最高裁が、医師にDNAR指示の前に患者との話し合いを義務付ける判決を出しました。合意の必要までは言われていないので、法的には医師の決定権が認められているとしても患者本人や家族とまったく話し合うこともなく一方的に決めてはなりませんよ、ということでしょう。私には「私や家族の命に関わることなのだから、せめてきちんと説明してほしい」という患者サイドの願いを、正面から受け止めた賢明な判決のように感じられました。これ以後、英国ではDNAR指示は患者との話し合いが前提と理解されるようになっています。

 しかし、昨年5月にデイリー・テレグラフ紙が報道した英国内科医学会の調査では、死に瀕している患者のDNAR指示をめぐって、5家族に1家族が指示の事実を知らされていないことが明らかになっています。

 日本ではどのくらいの患者や家族が説明を受けているのか、気になります。

 ちなみに、年が明けて今年1月1日、米バーモント州では、蘇生措置の無益性を2人の医師が確認し署名すれば、患者あるいは代理決定権者のインフォームドコンセントなしでDNAR指示を書いてもよいとの法改正が施行された、とのこと。バーモント州といえば、上記のようにもともと患者の同意なしにPOLSTでのDNAR指示が認められていた州。医師による自殺幇助が合法化されている州でもあります。 

 どこの国でも財政が逼迫し医療費削減の必要が喧伝される中、何を「無益」とするか、それを誰が決めるか、という倫理問題の議論では、今後はさらに医師のインテグリティと患者の決定権とが対立していくことでしょう。「対立させられていく」と表現するほうが正しいのかもしれません。

 ちなみに、2007年から英語圏の「無益な治療」をめぐる事件や議論を追いかけてきた中で、私が最も印象に残している論文の一つは、2012年にジェイムズ・バーナットという生命倫理学者(脳神経科医でもあります)がNeurology Todayに書いた「脳神経科医は同意なしに終末期の患者にDNRを書いてもよいか」。

I believe that purposely not to mention the possibility of CPR is to squander an opportunity for an important discussion with the patient or surrogate on the patient's goals of therapy.
あえてCPRの可能性に触れないでおくことは、患者の治療のゴールに関して本人や代理決定者との間で大切な話し合いをする機会を損なうと私は確信している。

 まったく、そうだなぁ、と私も思うのです。

 英語圏の「無益な治療」をめぐる議論を追いかけていると、「決定権を患者に明け渡すと医師のインテグリティが損なわれるか」とか「決定権はどちら側にあるか」といった対立的な問題設定に、だんだん息苦しくなってきます。そこをちょっと緩めて、「どうしたら、患者さんや家族の望みを尊重しつつ、ともに悩みともに考えともに決めることができるか」という問題設定へと転じる方向はないものなんだろうかねぇ……と、日本のバアサンは、ついつぶやいてしまいます。

 そんな私には、日本集中医療学会の厳正かつ誠実な姿勢こそが、医療専門職のインテグリティというものだろう、と思えてなりません。