ウーレット『生命倫理学と障害学の対話』(批判的)再読 4: 第7章 (中)

前のエントリーからの続きです)


いずれにしても、
ポーリオットに苦痛に満ちた死が強いられた要因を
第6章のメアリーの事例と同じように、法律の問題としてのみ論じることで、
ここでもウーレットは問題の本質を捉え損なっている。

私は、NY州司法長官の介入以前に、
それを招いたシラキュース大学病院の事務局による通報に、既にして、
メアリーの事例と同じ、官僚的自己保身を秘めた「専門職」の判断があった、と思う。

ウーレットの論文によると、ポーリオットが入院したのは1999年12月21日。
12月27日になって、大学病院が州精神遅滞発達障害局と相談し、
州法では栄養と水分と抗生剤を与えなければならないと判断する。
そして、30日に州事実審裁判所に法的後見人の任命を申し立てている。
(ウーレットは本書では裁判所が後見人の任命を命じたという書き方をしている)

事実審判事がポーリオットのベッドサイドを訪れて、治療中止を命じた際にも、
病院と州精神遅滞発達障害局は、より明確な法的根拠を求めて上訴している(論文)。

この事件では、
メアリーの事例で州のルールを過剰に読み込んだGH施設長の役どころを演じた機関が
複数あった、ということではないか?

実際、『生命倫理学と障害学の対話』では端折られているのだけれど、
ウーレットの論文と、前述のAndreoliの解説によると、

2000年1月3日に事実審の判事が出した決定は以下なのである。

……all medical treatment for Ms. Pouliot be terminated, except for nutrition, as tolerated, and palliative hydration care.
(ウーレット論文)


…… all medical treatment for Sheila Pouliot be terminated, except for nutrition as tolerated, [and] palliative hydration care, based on the best interest of the patient.
(Andreoli)


これを素直に読めば、
既に身体が拒絶している状態で無理やりカロリーを摂らせることも
緩和の範囲を超えて水分を入れることも、
患者の最善の利益にならないという判断で控えることができたことになる。

それでも、そうさせまいとする病院側の意図を感じていたのか、
この翌日には法定代理人に任命された妹のBlouinが法的手続きを取り、
法的代理人の同意なく病院が栄養を補給しないよう裁判所が命令を出し(Andreoli)、
実際、1月7日まではポーリオットには水分のみしか行っていない(ウーレット論文)。

ところが、その後なぜか一転して、
900カロリーの補給が「合意」されてしまう。

このあたりのいきさつは、ウーレットの2004年論文でも奇妙に曖昧にされており、
生命倫理学と障害学の対話』の解説でも、Andreoliの解説でも、
一体なにがどうなったのか、事情はさっぱり分からない。

ただ、ウーレットが『生命倫理学と障害学の対話』第7章で書いているように、
「NY州法を条文どおりに適用することによって」判事が一方的に命じたというような単純な状況ではなく、

少なくとも、
代理人であるBlouinを含めた家族と、病院関係者とが
病院内で会合をもち、「合意した」事実はあったようだ。

しかも、ウーレットは論文にも本書にも書いていないが、
Andreoliによれば、その病院での会合には司法長官自身が出席しているから驚く。

これらの事実からすると、
「裁判所が字義通りに法律を解釈して栄養と水分の補給を強制した」という
ウーレットの主張は怪しくなってくる。

NY州法の不明瞭という要因があったことは事実だとしても、
それ自体が、ウーレットが描いているような主要因だったのではなく、

むしろ病院当局、州精神遅滞発達障害局、さらに司法長官という
「専門職」や「専門家組織」の官僚的自己保身の連鎖の中で
ポーリオットという固有の患者の医療をめぐる意思決定の問題が
NY州法とその解釈による手続きの問題に転じられてしまったこと。それにより、
ポーリオットという固有の患者の「最善の利益」という視点が
議論から完全に漏れ落ちてしまったことこそが、
この悲劇の本質だったように私には見える。

ウーレットの本書第7章での議論から、
奇妙なほど「個別の患者の最善の利益」という視点が欠落していることも、
2000年1月3日の事実審の判断の引用から、その文言が端折られていることも、
そう考えると、なにやら象徴的な現象ではある。


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さらに、ポーリオットの事例をめぐるウーレットの議論で、
問題があると私が思うのは、

2004年の論文で「生気論」だとしたNY州法への批判の枠組みを、
本書第7章でそのまま障害者コミュニティへの反論に横滑りさせていること。

シャイボ事件を受けて障害者運動が提案した、
一定のケースで水分と栄養を基本的なケアとして義務付ける「モデル法」の精神を、
ウーレットはNY州法に見たのと同じ「生気論」と捉えている節がある。

ポーリオットの事例には障害者運動は介入しなかったが、
介入していたとしたらシャイボ事件と同じく、
ポーリオットにも栄養と水分の続行を求めたはずだとウーレットは決め付け、
ポーリオットのような事例を招くことを根拠に
「モデル法」のような「パターナリスティックな法律」は機能しないという
論理展開を続けている。

つまり、第7章の論理構造は、
シャイボ事件で障害者運動が提案した「モデル」法への反証として
ポーリオット事件が提示される、という形をとっているのだけれど、

「終末期ではなかった」シャイボの事例と、
「終末期だった」とされるポーリオットの事例とが、
そこではまるで区別されていない。

それはそのまま、
栄養と水分によって生命維持が可能な「終末期ではない」人での中止の判断と
ポイント・オブ・ノーリターンを超えた人の看取りケアにおける栄養と水分をめぐる判断との
混同でもある。

そもそも、このポーリオットの事例こそ、
患者の「最善の利益」と「医学的妥当性」という論点が議論から漏れ落ちさえしなければ、
本来の意味での「無益な治療」論が適用されて然るべき事例だったのではないか。

ポーリオットが、もうどうしたって救うことのできない状態にあり、
栄養と水分が救命につながらず、患者を苦しめるだけになるなら、
その治療は、本来の「無益な治療」論の意味で「無益な治療」なのであり、
それなら、その治療をする義務は医師にはない。

実際、ポーリオットの事例でも、上記のように、2000年1月3日の段階では、
その線に沿った判断がされていたのではなかったか。

障害者運動が懸念しているのは、こうした「無益性」判断の中に、
重症障害者のQOLの低さを終末期のQOLと混同する差別意識が紛れ込み、
「無益な治療」論が障害者差別による命の切り捨てのアリバイとなることだろう。

そして、
シャイボ事件とポーリオット事件を同じ「終末期の事例」として論じるウーレットは、
まさに、そこで懸念されている混同を犯してしまっている、と言えるのではないか。

その致命的な混同によって
第7章の議論はついに以下の三段論法に至る。

モデル法は一律に栄養と水分を強制する。
しかし、死が近づいた段階での栄養と水分の中止は緩和ケアとして「不可欠」である。
したがって、モデル法は適切な緩和ケアを受ける障害者の権利を侵害する。

ウーレットは第7章の終わりで、
「障害者コミュニティが求めている法改正では……大まか過ぎる」と書いているが、
「大まか」なのは、その三段論法の方だろう。

医療をめぐる判断はあくまでも患者の最善の利益に基づいた個別具体の判断であり、
緩和ケアにおいても栄養と水分の中止や差し控えはすべての人に「不可欠」ではないし、
(そも「緩和」をいうなら「鎮静」という手段は何故ポーリオットには無かったのだろう??)

なによりも、障害者運動がシャイボ事件を受けて求めた「法改正」の意図は、
「単なる重症障害」を「終末期」と混同する、医療界を含む社会の偏見によって
「医学的に不適切であるという主張だけで差別が起こらないように」するための
セーフガードの模索であり、

ウーレットがいうように
「終末期の人にまで一律に栄養と水分の補給を強制する」ことを意図したわけではないだろう。

「法改正」そのものが障害者コミュニティの目的ではないのに、
ウーレットは一つの手段として提示された「モデル法」の検討に目を奪われてしまって、
そこで意図されたことや、そこに込められた願いを見失ってしまった。

ここにもまた、アシュリー療法の議論に見られたように、
差別の問題に取り組もうと意図しつつ、法解釈や手続きの問題として扱うために
本質を捉え損なってしまう法律家の限界が露呈している。

(「全人的な医療」を心がけつつ、あくまで「医療の中で生活を理解してあげよう」とし、
患者や家族にとっては「生活の中にその一部として医療がある」という発想の逆転ができず、
「医療における全人性」追及の域を出ることができない「全人的な医療」や、

「患者中心の医療」を志しつつ、それを医療職のアプローチで実現しようとする姿勢や
医療職のテクニックの問題に落とし込む思考回路から逃れられないために、
「あくまで医療職が模索する『患者中心の医療』」になってしまう限界
同じカラクリがここにはあるような気がする)

そして自分のその限界に無自覚なまま、
強引に説明をつけて納得しようとするものだから、

第7章のウーレットの議論は、
日本の終末期医療をめぐる議論に見られるのと同じように、
障害者差別による治療中止が起こることへの懸念を
「どんな場合にも何が何でも生かしておけ」というvitalismの主張だと単純化・短絡してしまった。

誰にせよ、
自分が本当は十全に理解できていないものに
自分が理解できる範囲の解釈で名前を与えようとすると、
こういう過ちを犯すのだなぁ、と、自戒を込めて、思う。

すなわち、ウーレット自身にも、まだまだ障害者運動との対話が足りていないことが
この第7章の議論で暴露されてしまった。

ただ、この本が出た直後に、
Not Dead Yetのステファン・ドレイクから痛烈な批判を浴びたウーレットが、
この第7章での議論を、さらに、「なぜ障害者運動は
栄養と水分を義務付けるような法律を作らないと障害者を守れないと考えるのか」と、
「なぜ」へと問題を転じて、終末期医療に関する論文を書いたことは付記しておきたい。



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