松繁卓哉著『「患者中心の医療」という言説 患者の「知」の社会学』 4:第4章& 第5章

前のエントリーからの続きです。


第4章 英国Expert Patients Programmeにおける患者の「専門性」

……英国保健省とNHS(National Health Service:英国国民保健サービス)が主催するExpert Patients Programme (EPP)である。EPPは慢性的な症状を持つ人々が、その症状に上手く対処しながら、社会生活を送っていくためのスキルを獲得するために作られたトレーニング・プログラムで、アメリカ合衆国スタンフォード大学において開始された患者の自助のためのトレーニングプログラム Chronic Disease Self Management Program (CDSMP)をモデルとしている。
(p.87)


EPPの独自性を著者は以下の2点と指摘している。

① 患者を「専門能力」を持つ者(expert)として規定している。
患者歴の長い患者が指導員(tutor)としてリードする形式、
運営事務まで患者が行う lay-led(素人主導)であること。

② 「素人の専門性」を国が積極的に評価する姿勢をとっている。


私は個人的には②の点で、EPPにもこれまでと同じように、
医療のみならず医療費削減目的とする医療行政丸抱えの「患者中心の医療」に堕すリスクも
小さくないという気がしているのだけど、

私よりもはるかに詳しくEPPについて知っている著者は
以下のように捉えている。

……このような患者本人の学習成果は、往々にして慢性的な症状に対処するための試行錯誤の中から生み出されるものの、たとえば自らが紆余曲折を経て体得した独自の養生法などは、必ずしも医師など専門家からの指導と合致するものではない。このような場合、獲得された知識は、専門職知識とは異質のものと見なされる。このような「素人知識」は、「いかに本人の苦痛の軽減に役立っているか」「いかに患者当人が納得できるものであるか」といった判断基準よりは、「科学的根拠を持つか」「医学的裏づけがあるか」という基準のもとに「専門」という範疇からは排斥される。
(p.95)


……近代的「知」のシステムに乗っかっているがゆえに、このシステムの頂点にある「科学知」「医学知」の拘束スペクトルの内に、「素人知」が置かれてしまっている……
(p.113)


……資格制度と科学的学問体系を基盤とする近代以降支配的な専門家観に対して、「素人専門家(lay expert)」の市民権を獲得するために、EPPは「素人主導(lay-led)」というスタンスを過渡的に堅持していると見るべきであろう。
(p.110)


著者はEPPの関係者にインタビュー調査を行っているが、
その中の一人の語りは、まさに重心児者の親としての私自身の実感。

 ここで言う専門家っていうのは自分の症状についてのことなんです。私は私自身の腰痛についての専門家。自分の腰痛の面倒を見ていくことの専門家。お医者さんはその症状一般の専門家でしょう。
(シニア訓練員k. 女性、50代。以下、談話は筆者訳)


我田引水になりますが、
私がかつて娘の施設のスタッフの研修会で語った一部を以下に ↓

 ここにはいろんな専門家がおられますが、「療育」そのものの専門家というのはどこにもいないと思うんです。皆さんはそれぞれ医療とか福祉とか看護とかリハビリの専門家であって、決して「療育」の専門家ではないと思うんです。本人は本人であることの専門家です。たとえばウチの娘は、児玉海という一人の人間として生きていることの専門家です。そして親は、その子の親であることの専門家です。

 ウチの娘はこのところ、ひどい咳に苦しんでいます。たとえば看護師さんたちは排痰法というのを知っておられる。私も海が赤ん坊の頃に誰かに教えてもらった記憶はあるのですが、ほとんど覚えていません。でも、娘が咳き込んだ時にその咳き込み方によって、背中のどこら辺りを、どのくらいの強さで、どんなたたき方をしてやるのがいいか、私は理屈ではなく身体で知っています。親がその子の親であるということの専門家だというのは、そういうことなんです。

『海のいる風景 重症心身障害のある子どもの親であるということ』(生活書院)p. 251-2


第5章 ‘disease specific’という現象

……「患者中心となっていない現状の医療」を解決するための方策は、九分九厘が、医療者の「文法」によって対策が講じられているということである。この場合の「文法」とは、「疾患区分」「治療法」「臨床実践」と言い表すこともできる。そして、この「疾患区分」は、医療者の取り組みのみならず、患者同士が集まっての取り組みにおいても根深い規定要因となっている。
(p.116)


これに対する処方箋の一つとして著者が注目するのが
慢性的な症状があれば疾患を問わないEPPの
generic(著者は包括的と訳している) self managementというアプローチ。

象徴的なのは著者のインタビューで出てきた関係者の言葉。

 何らかのテクニカルな情報について語り合っているわけではないのです。病気とか、症状とか。そういうことではなくて、自分自身のケアをしていくことにどれだけ確信を持てるか、そこを取り上げているのです。そういう「専門性」は全く(医療職の専門性とは)違うものでしょう。
(保健省EPP関係者p. 女性)
(p.125)


 これ(EPP)は、一人の「患者専門家(expert patient)」を養成する取り組みではないんです。既に「専門家」である人々が集まる場なんです。
(保健省EPP関係者p. 女性)
(p. 126)


 expert patientが病院へ行く時、時間の浪費が少なくなるよ。だって、expert patientは自身のコンディションをマネジメントしたいと願っているから。
(シニア訓練員g, 40代、男性、糖尿病)
(p.127)


そこでの患者がどのような存在と捉えられているか、
著者は以下のように書いている。

……医師・パラメディカル・家族・友人・同僚など、自分の健康と病に直接的間接的に関与するあらゆる構成員の中心にあって、あらゆる意思決定の主宰となる存在に他ならない。
(p. 125)


……疾病・治療法・予後などについての知識の欠如があっても、病ある生を送る主体として、たんなる治療のレシピエントであってはならないとの強い意思表示がここにある。……受身的に医療者によるスクリーニングを受けるのではなく、問題解決に当たる当人として……
(p.127)


次のエントリーに続きます。