松繁卓哉著『「患者中心の医療」という言説 患者の「知」の社会学』5:第6章& 終章

前のエントリーからの続きです。


第6章「患者中心の医療」と「専門性」
終章 総括と展望

どちらかというと第6章のほうが結論めいて感じられたので、
ここは分けずに。

認識論的転回としての「患者中心の医療」の問題点として
著者が挙げているのは、

EBMにおけるエビデンスの応用での「相互参照」には
その具体的手順が言語化しにくいという問題があり、そのために
EBM流の「言語化」「明示化」だけが推進されてしまうのではないかとの懸念。

……「相互参照」が医療職単独で成し遂げられるものであるのか、という点について、ほとんど考察されることがない。これも第3章で見てきたが、臨床実践の問題点改善の取り組みは多くの場合「医療者側の改善」であり、言い換えれば、「医療者のアクションによって現状の問題をカバーする」というスタンスで進められている。
……異質な世界観があり、それぞれに精通したものがいる中で、片側の人間が全てを主宰するあり方自体が、「科学―社会」における前者の圧倒的優位をうかがわせる。生活コンテクストの代表者たる患者の「知」を未活用の資源として捉えることが急務となっているのは、こうした理由による。
(p.137)


一方、10年近く前から Power(1999)やStrathern(2000)が指摘してきた
「オーディット文化」の浸透が進んでいる。

……「オーディット」概念は、経済のみならず、教育・科学技術・環境保全・行政から保健医療にいたるまで、単一的価値評価法が養成される機序の理解をわれわれにもたらす。
(p.139)


著者は、その単一的価値評価の「唯一」の基準となるのが
「健康と病への生物医学的事実認識法」(p.138)であることを著者は懸念する。


このくだりを読んで、このシリーズの3のエントリーでちょっと書いた私自身の感触を、
以下のような認識としてで捉えなおすことができた。

multi-disciplinarityの進展の中で、
経済学の独善性・専横性が医学のそれと親和して、むしろ、螺旋的に
『医学的権威で正当化された経済効率』というmono-disciplinarityへと回帰している。

つまり経済学が「オーディット」と「説明責任」を要請し、
それに応えて医学・科学がそのための唯一「客観的」で「正しい」基準を提供しているかのように。

それは医療だけではなく、社会福祉や教育を含めたあらゆる領域で起こっていることでもある。


こうした中で、例えばEBPCにおいて
EBMに基いた医学知・科学知が固有の患者への適用という最終ポイントにおいて
治療の選択肢のエビデンスがそれぞれに示されただけでは、
固有の患者の生活コンテクストとの調査という「折り合い」は可能になるよりも
むしろ「一般化された『知』が文脈へと還元される道筋は『遮断』される」(P.141)

もう一つ、「患者中心の医療」という認識論的転回を困難にする要因として
医学教育のミクロからナノへの微視化がある。

これは、
当ブログがアシュリー事件からずっと考えてきた問題の捉え方で言えば、
科学とテクノロジーの急速な発達によって、人々の欲望が新たに掘り起こされて、
人間の体も能力も命もいかようにも操作コントロールが可能になった(なる)かのような
「コントロール幻想」が広がり、それにつれて科学とテクノロジーという狭い領域の価値観が
社会全体にも優位になってきている'、ということだと思う。

グローバルな強欲ネオリベ人でなし金融資本主義が
それらを収奪のツールとして敢えて広げているという面も、
上記の経済学と医学の権威の親和も、もちろん関わっているとも思う。

そういう中で、著者は、
真に「患者中心」と言える医療が実現されるためには
倫理学、人類学、社会学看護学などの研究領域の知見を周縁に追いやる
医学のみによるmono-disciplinarityを脱却することや、

患者と医療専門職との「協働」においての
主客の転倒の必要を基盤に据えた制度的見直し、

なにより「素人」の「知」の営みが
医療専門実践を完成させるために不可欠だとする。

また、「価値認識の転回」を起動させるものとして
「視座の往還性」という興味深い概念が提示されている。

私にとっては、まさにこの下りがこの本の提言と感じられた箇所 ↓
(実は最近まさにこういうことを私自身の素朴な言葉で書こうとしていたりもするので)

……医療者にとっては、意思決定における自らの医学パースペクティブを離れ、全く異質の合理世界に立ち位置をシフトさせることに他ならず、患者にとっては、医学の文法を理解しながらも、これにすべてを委ねるのではなく、生活コンテクストおよび自らの進退が語る言語を繊細にキャッチし、諸価値の判断となる必要がある。本書冒頭で掲げた問い「患者のすべきこと」とは、まさにこのことを示している。そして、二者が行う視座の往還こそが「医学知と患者本位の折り合い」の様態として希求されるべきである。
(p.149)


また、別の表現では、

医学教育においてPBLやOSCEの導入が進み、医師が患者の意思・要望を読み取りうる職能者となり、そこに網羅的なエビデンス・ベース、さらに臨床家としての経験知が加われば「患者中心の医療」が成る、という認識の誤謬は、そこに患者のアクション・プランが不在であることにおいて明白である。
EPPにおける’expert patient’らの言明は、これとは異なる「患者中心の医療」を如実に物語った。患者としての自らの意図は「読み取られるもの」ではなく「表明するもの」であった。
(p.155)


まさに、上の二つの箇所に書かれていることこそが
「患者中心の医療」で「患者がなすべきこと」なのだと思う。

そして、患者がそれをなせるようになるための前提条件として、
医療の側や社会の側の「認識論的転回」が必要だということなのだと思う。

もう一つ、とても素朴な言葉で書かれている以下の一節が
「患者中心」のエッセンスをとてもうまく説明していると思った。

……「治療の受け手」であることと、「病ある生をいきること」との間にはじつは大きな相違があるわけで、これらが同一視され「治療の受け手」としてのみ性格づけられぬよう……
(p.144)