松繁卓哉著『「患者中心の医療」という言説 患者の「知」の社会学』 3: 第1章―第3章

前のエントリーからの続きです。


第1章「健康と病の社会学の誕生」

医療社会学の中から70年代になって「健康と病の社会学」が確立され、
生物医学への批判的分析によって、医療実践の政治性・社会性が明らかにされてきた。

……先に挙げた「患者役割」「専門家支配」において想定される「患者」は、自律性・知識・合理的判断を持たない「非科学」サイドの集団であり、このことから、医療社会学研究でさえ少なからず相互排他的関係の二項対立観に拠っていたことが分かる。しかしながら「素人」を「非科学」の代表として位置づけ続けることが将来の保健医療にどのような帰結をもたらすかという点については、今日に至るまで経験的データに基いた研究が蓄積されているとは言い難い状況にあり、多くのことが明らかにされていない。この意味においてSHG(セルフヘルプグループ)研究は、「その取り組みが人々の健康改善に有効であるか」という観点のみから推し進められるべきではなく、「その取り組みが生成する知識・スキル・技術がどのような成り立ちを持つもので、どのように社会に評価(あるいは周縁化)されていくのか」という視座も併せ持つことが期待される。
(p.37)


第2章「研究アプローチ―批判的言説分析の構想―」

「患者中心の医療」が叫ばれる一方で、
保健医療システムでは、エビデンスを厳密に求めるEBMが推進されている。

これら2つのテーゼは並立可能なのか、という問いへの答えは難しいが、
すくなくとも並立させるための対処の必要があることは予想されるとする著者は、
次のように書いている。

近年、慢性的に続く症状と共に生活を送るうちに多くの知識・技術を身につけた患者を“lay expert” “ expert patient” と称して、患者の「専門性」を構築する動きが出てきており、一方で、医学の知識、技術を基盤として成立してきた医学教育カリキュラムが「対人スキル」「問題解決能力」などのコンテンツを盛んに組み入れている。これらの状況は、上記二つのテーゼ並立のための「対処」として生じたものと理解することができるのではないか。これが本書の設定する問いである。
(p.43)


なお著者は、序章で紹介したような二項区分認識に言及するのは
そのものを分析する意図ではなく、それを材料にして、
「そこに潜在する問題の構造を明らかにする」ことを目的とする、と断っている。

まとめとしては、

……保健医療をめぐる動向と、それを根底において支えるドミナントイデオロギーに対する批判的態度は、今、眼前にある現実とは異なる実相が存在し得ることへの認識を可能にするのであり、そのことに重要な意義を見出せるのである。
(p.53)


第3章「医学教育におけるproblem-based learningのひろがり
      ―医療者による「患者中心の医療」構想―」

多くの国で、これまでの知育偏重への反省から
「対人スキル」「問題解決能力」「患者中心」を重視した
医学教育カリキュラムの見直しが行われている。

その典型例として、
「生理学」「解剖学」「泌尿器科学」といった「科目」を教えるLBT(lecture-based learning)から
固有の患者の症例から多面的に医師としての対応を考えていく
PBL(problem based learning)アプローチへの転換の傾向がある。

著者は英国の医療を例にとって、その背景に以下の2つを見ている。

①医学知識の急速な拡大と
②医療を限られた「公共財」「資源」と見なし「効率」や「経営」と言った概念で
医療費を削減する社会的要請から、国家による医学教育への介入

②によって、これまでの生物医学の mono-disciplinarityから
 医学教育が multi-disciplinarity へとシフトしてきたとも言える。

 そこには、民間企業の経営手法を医療制度に導入することを目指し
 医療の経営性を高めたGriffiths Report (1983)の影響が大きい。

(私はここのところは、そうしたmulti-disciplinarityへのシフトの中で
経済学の独善性、経済学のmono-disciplinarityが医学のそれと親和していき、
むしろ、らせん状にくるりと一回りしながら、医療の経営性を高めるために
「医療経済的な判断をし、それを医学的権威によって正当化し断行する」意識を
現場の個々の医療職の側に広げてきたのではないか、
その典型的な現れの一つとして起こっているのが、QOL指標による「無益な治療」の切捨てと、
その先に見え隠れする臓器提供への誘導なのではないか、という気がしているのだけれど)


 またthe Patient’s Charter (1991)が患者を「利用者」「顧客」と位置づけた。

The Patinet’s Charterは、患者からの求めに対し医療者側が遂行すべき事項を挙げることによって、「専門的知識」を持たない患者の立場が守られることを目的とした。
(P.69)


これまでの研究によって
医師と患者との間で行われる意思決定は以下の3パターンに類型化される。

① paternalistic decision-making (家父長制的意思決定)
② informed decision-making(説明を伴う意思決定)
③ shared decision-making (共同作業による意思決定)

この中の③への志向について、著者は以下のように書いている。
私は、これ重要な視点と思う。

……つまり、生物医学的妥当性だけでは、もはや治療の方向づけがなしえないという見解が広く共有されるようになったという点を指摘できる。患者の権利・要望を踏まえつつ、生物学的判断をもとに、治療方針を纏めあげていく能力が、医師の「専門性」の中に組み入れられたプロセスを、ここから読み取ることができる。
(p.70)


(これにも、それ以後の世界的な医療費削減の社会的要請の中で、
 ある種の「揺り戻し」が起こりつつある、というのが私の感覚ではあるけど)


また英国GMCから2003年に出たTomorrow’s Doctorsも紹介されているる。

この章の締めくくりで著者が提示する問題は、

「PBLによって知識偏重を脱し、同僚・患者らとの狭義を取りまとめて論理的に思考する医師が養成されたとして、果たしてそれが『患者中心の医療』を成立せしめるのか」という問い……そのような理想形の中にある患者像をわれわれは今一度身長に吟味する必要があるのではないか。
 先に医療者が「丸抱え」する「患者中心の医療」ということを述べた。つまり、医師の「専門性」が拡張されつつあることが、医療における価値判断者としての患者の存在を希薄化する可能性である。価値判断は医療者がリードし、患者はそれを享受するのみの存在という位置づけを今後も続けていけるのだろうか。
(p. 80-81)


次のエントリーに続きます。