グリーフ・ケアと医療をめぐる意思決定について、ぐるぐるしてみた

こちらのエントリーのコメント欄でのやりとりに触発されて、

yaguchiさんがおっしゃっているグリーフケアより、
もう一つ手前の段階のことかも、ちょっと別のことかも、という気はしつつも、

自分自身の考えを整理するためのメモとして。


例えば、何かをキッカケに我が子の障害がぐんと重度化する時とか、
私の場合だと15年ほど前に海が腸ねん転で転院して緊急手術になった時とか、
重症障害のある子どもの親には、ある種のグリーフケアが必要になる事態というのが
繰り返し起こる。

そういう時に、誰がそのケアを担ってほしいか、を考えてみると、
そこでは職種よりも、それまでの私たち親子との関係性が基準になるような気がする。

海の腸ねん転の時には、
転院先の総合病院の外科病棟の師長さんも
それなりに配慮をしようとしては下さったと思うし、実際に
「おかあさん、今一番困っていることは何?」と聞いてくださったこともあったけれど、

それまでの関係性が何もない人が医療職としての責務としての判断から
そういうことを聞いてくださっても、それにはすっと乗っていけないものがあって、

逆に、毎日のように来てくださっていた療育園の師長さんには、
顔を見せてもらえるだけで励まされ支えられたのは、
やっぱりそれまでの関係性があって、立場上の責任や判断だけでなく、
個人的にも私たち親子を気にかけてくださっている気持ちが
ありありと伝わってくるからだったし、

また術後の痛み止めを入れてもらえない海の痛みを見かねて
私と一緒になって外科病棟のスタッフに訴えてもらえたのも、何よりも心強かった。

さらに、外科スタッフがあまりに重心のことに無知で
私がその無知との闘いにメゲそうになっていると見て取ると、療育園の師長さんは、
既に別施設で働いている前師長さんに「行ってあげて」と電話してくださった。

その前師長さんは、もちろん何度も来てくださったのだけれど、
今でも「あの時に○○師長からもらった電話のことは忘れられない。
自分だけでは支えきれない、手を貸してほしい、と後輩の私に電話してこられたのだから、
それほどspitzibaraさんが心配だったんだと思う」と何度も言われる。

(当時は、療育園開設時の大ベテランが建て直しのために戻ってきておられた時期なので、
前師長のほうが後輩に当たるのです)

その入院中には、何人ものスタッフが来てくださったし、
休日に幼い我が子を連れて来て海のリハビリをして、
ついでに「おかあさん、大丈夫?」と話を聞いてくれたOTさんもいた。

忙しい中を何度も寄ってくださった若い医師は
「外科医が裁判を恐れて余計なことをしたくなくて、
それが海の余計な苦痛や負担になっている」という私の状況把握に対して、
「ものが見えているというのは悪いことじゃないよねぇ」という言葉で
暗にその通りだと認めてくれて、

それでも親の言うことは「素人のくせに」と
外科病棟のスタッフにはじき返されることに歯噛みする私に、
「おかあさん、いっそ今から医療職になったら?
おかあさんなら、今からでも大丈夫だと思うよ」と驚きの提案をして
勇気付けてくれたりもした。

誰かが「組織の立場上」あるいは「仕事だから」じゃなくて、
私たち親子が気になって来ないではいられないから、と来てくれる時、

あるいは、本当は立場上、言えないことなんだけど、
でも、目の前のこの人の苦しみを見ていたら、どうしても黙っていられないから
今の自分には、こういう形でしか言えないけど……と何かを言ってくれる時、

その気持ちが、伝わってくるんだと思う。

その気持ちにケアされるんだと思う。

初めての病院の馴染みのないスタッフから
あからさまに「モンスター」視されている厳しい状況の中で、
そういうことの一つひとつが、あの時の私には温かいグリーフケアだった。

そんな気がする。

それなら、この先、海にもしものことがあるなら、
「子を喪った親のグリーフケアを念頭に接してくれる専門家」とではなく、
「海を知っていて同じ悲嘆を共有してくれる一人の人」と私は話したい。

海のことを小さな頃から知っていて、親しんでくれたスタッフ、
私のことも理解し支えてくれて、私が「一緒にやってきた仲間」と感じられるスタッフと、
一緒に悲しみ、一緒に静かな時を過ごしたい。

そして、この思いはたぶん、医療をめぐって大きな意思決定と直面した時に、
そのプロセスを誰に共有してもらいたいかということにも通じていくと思う。

医療の世界での意思決定の議論は、医療職には
最終的に「正しい意思決定」を目指すべき「医療」の問題、
「今ここ」でどういう決定をするかという「(時)点」の問題、
あるいは「いかに医師が正解と考える選択を親にさせるか」という問題として
捉えられていたりするんだけれど、

親にとっては、そうじゃなくて、
「これこれこういうふうに生きてきた一人の人と、その親」の「人生」の決断の問題であり、
だから、それまでの人生を引きずった先にある「線」の問題。

だから、例えば
栄養と水分をめぐる大きな意思決定に直面することを想定するなら、

海がムセるようになって、私が必死で娘の食の全面見直しに取り組んだ数年前に、
それを受けて療育園でも摂食機能評価から始めて、見直してくれて、
口から安全に食べられるための工夫をいっしょに考えてくれて、
私と一緒にあれこれとチャレンジしてくれたスタッフとこそ
共に悩みながら考えたい。

医師から医学的なことを説明されて、
「分かりましたか。分かりましたね。
だから、こうすべきだと思います。どうですか」と
「同意」を求められるだけではなくて、

親が家庭でそうしてきたように、毎日のデイルームで、
海のワガママや「駆け引き」に手を焼きながら
ひとさじひとさじ食べさせてきてくれた人たち、
あの数年前の「見直し」の大騒ぎにイヤな顔一つせずに付き合ってくれて、
海が前と同じように食べられるようになるまで私と一緒にあれこれ考えてくれた人たちに、
どう思うかを聞きたい。その人たちと話をしたい。

海の「食」を自分の身体で直接的に知っているその人たちが
他の人たちのことも現場の専門職として知ってきた経験や知識も動員して、
「おかあさん、私も辛いけど、でも、海さんにはもう限界だと思う」と言ってくれるなら、
その言葉は私には、行事の時と病気の時の海しか知らない医師の言葉よりも
はるかに重みを持って届きそうな気がする。

たぶん、そういう「説明」をする時の医師は、
本人の状態や治療について親に「正しく」理解させることを目指しているのだと思う。
そして、どこかで、医学的に正しい理解さえ出来れば、
医師である自分が正解と考える選択肢を親も選ぶはずだ、
それを選ばないのは、親が医学に無知だから、正しく理解できないからだと
無意識に考えている。

でもね、それは、たぶん違うんじゃないかなぁ。

意思決定のための「説明」は
医学的なあれこれを「正しく理解させる」ことが目的なのじゃない。

医療の主体である本人または家族が、
「その人なりに悔いのない意思決定ができるよう支援する」ためのもののはずだと思う。

グリーフケアが、
医療職が考えて編み出した定義や段階や手順みたいなものに個々の患者や家族を当てはめて、
さぁ、グリーフケアを私はちゃんとやりますよ、
グリーフケアの専門家としてあなたの悲嘆に寄り添いますよ、
みたいな姿勢でやるものではないように。