利光恵子著/松原洋子監修 『戦後日本における女性障害者への強制的な不妊手術』メモ (中)

前のエントリーからの続きです。


本書の中心は、4人の女性への聞き取り調査。

① 飯塚淳子さん(仮名)

全国的に1955年をピークに不妊手術は減っていくが、
宮城県では1965年をピークに1970年代まで続いた。

飯塚さんが手術を受けさせられた宮城県中央優生保護相談所付属診療所は、
もっぱら優生保護法第4条と第12条による優生手術を行っていた医療機関
所長の長瀬秀雄医師は、宮城県中央優生保護相談書所長を兼任。

「人口資質の劣悪化を防ぐため精薄者を主な対象とした優生手術」と
「積極的によい結婚(近親結婚、資質劣悪者との結婚を避ける)」とを
「家族計画事業」として推進していた人物。

国レベルの動向としては、
1960年7月に池田内閣が誕生。
所得倍増計画」を発表し、
1962年には「人口資質向上対策に関する決議」が出された。

飯田淳子さんは1946年に生まれた。
生活保護を受ける貧しい家庭の7人兄弟の長女。

中学3年で軽度知的障害児入所施設に入所、
卒業後、職親の元に住み込み。差別的な扱いを受けた。

16歳の時に「精神薄弱者、内因性軽症魯鈍、優生手術の必要を認められる」と判定され、
上記診療所にて卵管結紮と思われる不妊手術を受けさせられた。

本人は職親の妻に診療所に連れて行かれても病気だから入院するのだと思っていたという。
手術後は月経のたびに転げまわるほどの腹痛があり、疲れやすいなどの不調が続く。
結婚もしたが子どもが産めないことで離婚に。

1997年に情報開示を求めたが、宮城県
該当の時期の記録のみ焼却処分されていて見つからないと回答。

父親に問いただすと、
民生委員と職親から「あれじゃ駄目だから、ハンコを押せ」と責められて、
仕方なく押した、と聞いた。

その後も、支援者らと宮城県との交渉を続け、
2015年6月23日、弁護士や「優生手術に対する謝罪を求める会」などの支援を受けて、
日本弁護士連合会人権擁護委員会に人権救済の申し立てを行う。

当時の報道はこちらに ↓
http://www.arsvi.com/d/a082015.htm

飯塚さんの語りには、
知らないうちに不当に生殖機能を奪われてしまったがゆえに、
そこにこだわり続けないでいられない女性の苦悩が滲み出ている。

私の親でもない他人が、なぜ、子どもを産めなくすることができるのか。私の人生、返してほしい…何も悪いこともしていないのに、奥さんが私に「他人の子だから憎たらしい子だね」と、たびたび言ってたので、それで、優生手術をするようにしたのでは、と私は思っている。
(p.34)


著者は、米国で貧困女性を「精神薄弱」として不妊手術が強行された事例を挙げ、
当時の宮城県にも同様の構造があったのでは、と推察し,

そこには、貧困、障害、女性に対する差別が絡み合い、凝縮されている姿をみることができる。
(p. 41)


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