利光恵子著/松原洋子監修 『戦後日本における女性障害者への強制的な不妊手術』メモ (後)

前のエントリーからの続きです。


② 佐々木千津子さんの事例

佐々木千津子さんについては多少のことは知っており、
これまでに以下のエントリーを書いているのですが、



そもそも優生保護法の第28条で
「何人も、この法律の規定による場合の他、故なく、
生殖を不能とすることを目的として手術又は
レントゲン照射を行ってはならない」とされているほか、

1949年1月20日の厚生省通達でも
「邦題2条の生殖を不能にする手術の術式は、施行規則第1条書く号に列挙してあるが、
放射線照射による方法は、一切これを認めない方針であるから
この点特に注意されたい」と述べていることを

ずっと知らなかったので、今回これを知ったことは大きな衝撃だった。

佐々木さんは、思春期から生理の世話をしてもらうたびに母親からこぼされ、
子宮摘出を提案されたが、手術は恐いと拒否していた。

その後、、長姉の縁談が自分の障害を理由に破談となったことから
自ら進んで施設入所を希望。

その際に自分で生理の手当てができることを条件とされたことと
母親が「痛くも痒くもない手術」を聞いてきたことから同意した。
1968年10月。20歳の時に広島市民病院で1週間コバルト照射を受ける。

その際、子どもを埋めなくなるとは知らなかった。

この点について著者は

その措置の意味を認識できずに行った「同意」は同意とは言えない。
(p. 82)


入所後、放射線照射の副作用で動けないことが多く、
職員や入所者から「横着病」と誤解されて苛められた。

また、生理の手当ができない者は入所できないと聞いていたが、
他の入所者は月経の手当てをしてもらっていた。

結局、子宮摘出をしていたのは佐々木さん一人だった。

好きな人もできたが、自分は子どもがほしいから、と結婚を断られた。

20代後半の頃に、赤ちゃんを育てたくって、育てたくってたまらなかった。
自分ではできない…心の中ではいつも叫んでいた。この気持ちを誰も分かってくれない。
どうやってこらえたらいいのか、分からなかった。つらかった。ひとりで悩んでいた。
(p. 61)


1986年から自立生活。

術後、手術の後遺症と思われる症状に苦しみ、
50~60代に至っても「長期にわたる女性ホルモン欠乏による重度の骨粗鬆症
脊椎損傷の発症からくる」体の痛みに苦しんだ。

なぜか最近、ちっちゃい子どもをみると、ほしくなって、誘拐、ゆーかい、といって騒ぎよった。ふと、母親と呼ばれたいという気持ちがわいてきて……

最近はどっかからもらいうけるとか、最悪の場合、誘拐でもして、育てていって、死ぬまでに一度でいいから「お母さん」と呼ばれてみたいという思いもあった。
(p. 68 1995年のエッセイの記述)


1994年のシンポジウムで質問したのを機に、
実名で被害体験を語り始める。

2003年、広島市民病院と話し合い、謝罪はあったが
2004年に資料が存在しないと回答を得る。

2013年8月18日、死去。65歳。

1960年代は全国に大規模コロニーが作られ、
障害者の施設収容が進められていた時代。

施設に入れてもらうために「親が自発的に協力して」
不妊化措置が行われる例が稀ではなかった。

……当時の施設側には、そして、佐々木さんの母親もまた、障害のある女性が子どもを産み育てることは想定できず、月経はただ単にやっかいなものであり、月経の介助負担軽減のための不妊化措置という身体への直接的な介入が正当化されていたのである。……施設という空間の中で、女性障害者の性と生殖に関わる領域が、完全に無化されていく様が見て取れる。
(p. 83)


また、その他の事例として

1989年に岡山の障害者施設「大佐荘」で女性障害者が
月経が近づくと精神状態が不安定になるとの理由で子宮摘出を受けたことが報道されたり、

1993年には近畿と中部の国立大学付属病院の医師が、
月経をなくすために知的障害者3人の子宮を摘出したことが報道された。


③ 村中拓美さん(仮名)

石川県の入所施設で重度者が生理介助のたびに職員に嫌悪感をあらわにされていることを
たびたび目撃し、また他者の手を借りない自立を思い描いていたことから、
1980年に自ら子宮摘出を決意。

医師からは「22という年齢は若すぎます。
全摘、全部取ってしまったら、身体になんらかの影響が出ますから、
やめておきなさい」(p. 98)といわれたが、押し切って
子宮筋腫」の診断名で子宮の3分の2を摘出してもらった。

が、術後に入所した富山県の施設では
月経は当たり前のこととして介助を受けることができ、
また他者の手を借りて自分の意思で暮らすことを自立とする自立観の修正もあり、
自分も被害者なのだと考えるように。

それでも
「親も医者も反対したがに、それを押し切ってしたという思いがずっとあって、
それは自己責任…」(p. 109)と苦しみ続けた。


④ 村中さんと施設で一緒だった福田文恵さんの語り。

施設入所中に生理を含めて排泄ケアは受けられず、
初潮前から看護師から自分でできないなら子宮を摘出すればよいと勧められていた。

整形外科の主治医が
「そういう手術をしたらホルモンのバランスが崩れて体調が悪くなる。
悪くなるから若いうちからは取らないほうがいい。とるんだったら
30超えてから、取るんだったらとれ」(p.112)と言われ、とらないことになった。

25歳で自宅に戻り、34歳から自立生活。
2000年11月から2003年11月まで「日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会」会長。


「おわりに」で著者がまとめている被害者への影響は以下。

① 子を産み育てる経験の剥奪。
リプロダクティブ・ヘルス・ライツの侵害。

健康被害
手術による臓器の癒着に起因する周期的、あるいは持続的な痛み。
体内の急激なホルモン環境の変化による様々な症状。
骨粗鬆症

③ 著しい屈辱感の継続と
それによる個人や女性としてのアイデンティティのゆらぎ。



            =====

”アシュリー療法”が世界中の重症児に広がって行っており、
その一環として子宮摘出が行われている。

正当化論は、
「どうせ子どもを産むことも育てることもない重症児には無用」
「生理の不快の回避」や「他人に生理の手当てをしてもらうのは尊厳がない」などで、
まさに本書の聞き取りに出てくる通り。

一方で、
本書の聞き取りでは、優生思想が広がっていた当時でも
少なくとも2人の医師が「子宮摘出で身体のバランスが崩れて体調が悪くなる」から、
若いうちからやるべきではない、との見解を示していることを思うと、

2007年の”アシュリー療法”論争以降、
こうしたリスクを指摘する医師がいないことが不思議--。