樽井康彦論文「知的障害者の脱施設化の論点に関する文献的研究」  前

「知的障害者の脱施設化の論点に関する文献的研究」
樽井康彦 大阪市立大学大学院生活科学研究科後期博士課程
生活科学研究誌 Vol.7, (2008) 《人間福祉分野》


Ⅰ. 近年のわが国における脱施設化施策の動向

2006年から段階的に施行された障害者自立支援法での目標値は
2011年度末までに入所施設定員を(新規入所者の増加分と差し引いて)7%以上削減。

2007年12月の「重点施策実施5カ年計画」では
グループホームとケアホームの利用者数を2007年の4.5万人から2011年度には8万人に。
福祉施設入所者を2011年度末までに1.1万人削減。

……このように、入所施設の存在がノーマライゼーション実現の阻害要因であるとする議論は、わが国でも広く浸透しているといえるだろう。

(中略)

……現状に対する憤りにも似た疑念と改革への志向が「原点」となり、ノーマライゼーション理念の実現には入所施設の削減が不可欠との考え方は、障害福祉分野で広く含意されているといえよう。
(p.2)


Ⅱ. 脱施設化議論の焦点

Jackは、
文献で指摘される施設逆機能(引用者注:施設の負の側面)は、
綿密な調査を行うと、当然の真理ではないと指摘。

KleinbergとGalliganは、
地域移行が伝統的な大規模施設よりも、よりノーマライズされているという考え方は
「単純化されすぎている」と指摘。

CooperとPictonは
80~90年代の脱施設に関する研究を振り返って、
その成果には矛盾や対立が含まれている、と指摘。

もちろん、これらは施設の全肯定でも施設化への回帰の主張でもなく、

秋山は、

「脱施設化」の目標そのものが間違っているのではなく、それを達成し、可能にするための条件整備なしに推進されたことに問題があるのである。


塩見も、
脱施設化に慎重な人々も脱施設化の異議を否定しているのではないし、
議論の最大の焦点は脱施設化の「賛否」ではなく、
それを進めるための「手法」だ、と指摘。

つまり「賛成vs反対」ではなく、実態は「賛成vs慎重」なのであり、

そうであるならば、必要なのは
「慎重なのは差別しているから」「現状が都合がいいから」と決めつけるんじゃなくて、
「なぜ慎重にならざるを得ないのか」を問うことだろう、という話なんだと思う。

遠藤も、
論点は「もはや『地域移行を行うか否か』ではなく、
『どのように地域移行を行うか』という支援の質、支援のあり方を検討していくこと」と指摘。

これこそ、まさに私がハートネットTVのインタビューで指摘させてもらった、
医療的ケアを必要とする子どもたちで目下、進行している、
「支援なき地域への移行」が抱える問題そのもの。




Ⅲ.入所施設批判の内容と性格

1.Goffmanの問いかけをめぐって

米国の施設批判の代表的なものはGoffmanの「アサイラム」。
BlattとKaplanの『煉獄のクリスマス』。

日本でも、入所施設については
過剰な保護・規制で入所者の主体性・自主性が剥奪される、
安全性が強調されるあまり自立への取り組みが消極的、など
入所施設の逆機能については「明確に把握された経験的な事実ということができる」が、

著者は、そこに取り残された論点として、
「それらは大規模施設に独自・固有の現象であるか否か」換言すると
「大規模施設を解体することによって、人権侵害の問題が解決できるという
論理の実証的な妥当性はあるか」を指摘する。

施設書いた異論に対する懐疑的な見解として著者があげているのは、

大島は
「施設という形態から必然的に生じる問題ととらえるのは正しくない」

中村と相澤は
「入所施設の本態として避けがたく存在するもの」ではなく
「それは援助の質の問題であり、入所施設の宿命的な課題ではないと
現場にあるものたちは考えているのではないだろうか」

この点については、私は、前から
一部の自立生活運動関係者の発言にしばしば
「施設職員の意識は低くてケアも劣悪。自立生活のヘルパーは意識が高くてケアも良質」という前提を感じて、どうして、そんなに単純素朴に決め付けていられるのだろう、と不思議。

また、田ケ谷は、
現在の居住施設が本来行使すべき専門的な機能をまだ十分に発揮しえていない可能性を指摘。

塩見も、
入所施設が機能を遺憾なく発揮しても保障できないことと
機能を発揮できないために招いた結果とを区別する必要を指摘。

中野も
人権侵害等の問題は
「機能し得なかった実践の結果であり、『施設』自身を即否定するものとは言い切れない」

だとしたら、「なぜ」機能しえていないのか、を検討する必要がある。


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