山口三重子論文「重症障害新生児の治療決定過程における手続き的配慮の類型化の試み」(後)

前のエントリーからの続きです。


Ⅳ.重症障害新生児の治療決定に至る類型化と手続き的配慮

1) 重症障害の類型化の試み

著者は最初に、「重症障害」の多義性について

医療技術の高度化およびその標準化により重症障害が治癒する可能性が高まるならば、それだけ当該障害はもはや「障害」ではなくなると言いうるであろう。


そのうえで、
「重症障害」の度合いと治療効果との相互関連を類型化することが必要とし、
量の実施ないし継続に対する要因として以下の3軸を挙げる。

・身体的及び精神的な苦痛
・身体的及び精神的成長可能性
・生命予後

生命予後が悪く、かつ身体的・精神的発達も見込めない場合には、治療の中止ないし差控えが正当化されやすいが、生命予後は短くてもその間に身体的発達または精神的発達が期待される場合、生命予後の悪さのみによる治療を中止ないし差控えることが正当化されうるかどうかが問題となる。


そこで著者は
生命予後は悪いが知能は正常に発達するウェルドニッヒホフマン病を考察したうえで、

生命予後の悪さ、発達可能性の低さ、あるいは苦痛継続というそれぞれの要素は、それだけでは治療中止ないし差控えの十分な理由とはいえないということである。


2) 類型別配慮の多様性

生命予後は悪いが、程度の差はともかくある程度の身体的・神的発達が見込まれ、
身体的苦痛の程度も高くない場合、

家族の精神的負担が予見されるが、
それが非治療の選択を上回るかどうかは決定時点では比較できないとし、

親が公開しない決定を下すためには、将来の治療法の開発可能性を含めて可能な限り正確な医学上の情報を与えられることの他に、そのような障害児を支援するための社会組織が存在しているか、また専門的な相談窓口があるのか等について情報を与えられることが重要であろう。


この論文の中で最も個人的に目を引かれたのは、
生命予後の悪い児の場合に、「子どもの成長を担うのは親である必要はない」と断言し、
「親のジレンマを軽減するためにも、社会が親の負担を共に担うような制度の確立が望まれる」

次に、治療してもとくに精神的成長の可能性が低い場合について、

とくに精神的発達の見込みのなさを前提とした決定を親にゆだねることは適切ではないであろう。……さらに親の決定への負担を軽減するためには、尊厳死が認められる要件、特に本人の意思が明らかでない場合の尊厳死許容のための要件が明確化されることが重要であると思われる。


非常に気になるのは、この後で、以下のように書かれていること。

重症障害新生児に対して治療を行ったとしても植物状態ないしそれに近い状態になる可能性が高い場合について、そのような治療を無意味と位置付けてよいのかどうかにつき、社会的な合意形成が必要であると思われる

先に「重症障害」の概念の曖昧さについて慎重であろうとした著者が、
ここにきて何の疑問もなく植物状態ないしそれに近い状態」と平気で書けてしまう。
そのことに、唸りつつ考え込まないでいられない。

また最後に、治療に伴う本人の苦痛が除去ないし軽減できない場合について、
以下のように取りまとめ、

重度の身体的奇形がある場合のように、手術による生命予後も確保でき、その他の身体的・精神的発達も見込まれるが、継続的に苦痛を伴う治療を受け続けなければならない場合、あるいは社会的偏見の下で将来の生活設計が著しく困難であることが推測できる場合……


苦痛、特に身体的苦痛からの回避の権利は、従来より安楽死を許容する要件の一つとして議論されており、判例上も一定の判断が下されている。……大人に認められる権利が子どもであるがゆえに認められないとすることは不合理であろう。


が、苦痛を他者が知ることは困難であり、
親の判断には親自身の苦痛の基準が影響する可能性があることから、

親子の一体化の危険性に対して第三者が介入し、子どもが受容できる苦痛の限度について親にアドバイスを行うような制度が望まれるであろう。これは医学的観点からのみではなく、心理学的観点や社会学的観点等を含んで行われる必要があると思われる。また、患者の会などからは患者の生の声として、生活の現状や利用できる社会資源などの詳細を知ることができ、これは判断に悩む患者の家族にとって非常に有用であろう。


そこから、結論めいたものが導かれてくる。

 このように、それぞれの子どもの置かれた状況を類型的に検討していくならば、専門家としての医師の判断と、子どもと人生を共有する親ないし家族の判断とを架橋するために、様々な社会制度がそれぞれの重症障害新生児類型ごとに必要とされていることが理解される。


それにより

例えば先に述べたような、家族には最終決定を迫らないという父権的な考え方に基づいて医療者側が治療決定の責任を全面的に負うということも避けることができるであろう。それはまた、親の行う決定の自律性を確保することであると同時に、その決定を社会が支援するということでもある。さらに、正当化されない親の治療拒否については、社会はこれを容認しないという意思を確認することでもある。


また医療者側と患者側の認知の差を埋めていくための情報提供機関や、
治療を受ける側が正しい知識を得られるようなシステムが必要。


2). 意思決定組織と実施の手続き

倫理委員会の整備、活用。
院外に情報提供と判断を提示する機関等の設置。
治療実施後に親や家族に対して必要なケアを提供する機関。

など、
行政の責任において、当事者の判断形成を実質的に援助できるような第三者機関の設置、
公正な手続きと基準を作るよう提言。


Ⅴ.おわりに

それらのジレンマは、医療者個々人の問題としてではなく、社会の問題として取り上げられなければならない。また、重症障害新生児の治療決定後に生じうる様々な問題に対しても社会的な支援システムの構築が望まれる。


子どもに対する生命維持治療について本稿に論じたような問題が、理論的にも政策的にも一層真剣かつ公の場で議論されるならば、これは翻って日常的な医療上の決定全体に対する社会的信頼を向上させ、治療決定をめぐる患者と医療者のコミュニケーションの円滑化をもたらすことが期待されると思われる。


この最後の下りを逆に読めば、
日常的な医療上の決定全体に対して社会的信頼の向上が必要だとの認識が
著者にはあることになる。

私が、重い障害のある人の医療をめぐる意思決定の問題は、
その意思決定がいざ必要になった「(時)点」の問題ではなく、
その点の前後のところに地続きになっているはずの日常的な医療における意思決定のあり方という
実は「線」の問題として考えるべきこと、というのはそういうことだし、

私が最近さらに考えているのは、
その問題を単に医療の観点から考えるのではなく、
教育や福祉や社会通念や哲学といった、医療以外の観点にも開かれた
「面」の問題として捉え、考えることが必要なのではないのか、ということ。

社会の問題として取り上げる、社会的支援システムの構築が必要という著者の主張には
そうした「面」としての広がりの中で医療をめぐる意思決定を捉える方向性を感じて賛同しつつ、

でも、それを「手続き的配慮の類型化」によってやろうという提言は
「点」における医療の問題としての表層的な問題解決に留まりかねないのでは、という気がしないでもない。

ちなみに、著者は看護師のようです。