山本洋子『死に場所は誰が決めるの?  EVウイルスT型悪性リンパ腫の夫を看取った妻の記録』



保健師だった知人の手記。

夫を看取った後でご自身のガンがわかり、
闘病しながら執筆し、校了の10日前に著者自身も亡くなった。

開示請求で取ったカルテと手元の記録とを照合しつつ、
医療サイドが把握していた事実と患者サイドに伝えられていたことの齟齬、
医療サイドが患者と家族に伝えたと記載している内容と
患者と家族が受けた説明や態度との落差などが
克明に記されており、

読みながら、
そこに滲む本人と家族のあまりに深い無念の思いに、
今の時代にまだこんな患者本人と家族の意向を無視した医療があるのか、
それに対して、薬剤師である本人と保健師である妻にして、ここまで無力だったのか、と
信じがたい思いばかりが募り、辛く、胸が苦しかった。

著者の夫が体調不良を訴えたのは平成20年の夏。

大した病気ではないはずだったのに、
どんどん酷くなり、秋に総合病院に入院した。

咳がひどく、脾臓が腫れあがって、血小板が異常な低下を見せる中、
何種類もの検査を繰り返しても原因が判らず、
肥満で脂肪肝があるから痩せろ、という以外は
何人もの医師からの説明に一貫性がないことに翻弄されて、
身体的な苦痛ばかりか精神的な苦痛を深めていく本人と家族。

眠れないほどの痛みに襲われ、明らかに状態は悪化しているのに、
診断がつかないまま退院させられてしまう。

それが、亡くなる2ヶ月前のことだった。

わずか6日間の在宅生活の後に
さらに悪化して再入院。

その後、亡くなるまでの経緯の中で、
夫婦の無念の一つは、ガン拠点病院でありながら診断に時間がかかりすぎたこと。

そして、診断までの過程で、診断をつけることだけが重要視されて
いま現在の患者の苦しみへの対応が熱心ではなかったこと。

素人目で見ても明らかにただならぬ異常が起こっているのに
単なる肥満による脂肪肝のためだとされたり、
医師によって説明にバラつきがあったり、
あまりにも無神経な言動が多い。

さらに、この手術には治療効果はないと言明され、
即座に命に関わるリスクをこれでもかと列挙されたうえで、
単に診断をつけるための脾臓摘出手術の決定に、
釈然としない思いを抱えつつも嫌も応もなく同意させられてしまう夫婦の困惑。

そうして、やっと確定診断がついたのは死の10日あまり前のことだった。

それまでに患者は、家族から見ても既に明らかに終末期の様相となり、
本人も無念を積み重ねながら死を覚悟する言葉を口にしたり、
とにかく家に帰りたいと望むようになっていた。

それなのに家に連れて帰ってあげられなかったことが
妻の最大の悔いとなっている。

家族には、「次の化学療法までもたない可能性があるから
覚悟をしておいてほしい」と説明があり、

本人も自分なりに覚悟を決めて、もう治療をやめてホスピスに移るか、家に帰りたいと
強く訴え続けていたのに、治療続行に関して医師は聞く耳を持たなかった。

 夫は「病状はまったく悪化の一途をたどっているのにもかかわらず、どのような考えで次回の抗がん剤治療をするのか?」と質問しました。H主治医が「1パーセントの可能性でもあれば治療をします」と回答したことに対して、夫は激怒し、「人を何だと思っているのだ。それは患者に対する説明になってない。こんなにしんどいと訴えているのに、もう少し誠意のある説明をしてほしい。主治医を変えてくれ。もうあんたには診てほしくない!」と主治医にぶつけました。よほど腹が立ったのでしょう。尋常な怒りようではなかったにびっくりしました。

 主治医の変更に関して、カルテには「本日より担当医変更、H医師終了」と記載されているのみでした。

 H主治医は夫の怒りをどう感じたのでしょうか? きっと、今の医療体制の中では当たり前のことであり、「患者を傷つけて申し訳ない」とは少しも考えていなかったことでしょう。二日前に夫の死が近いことを告げた同じ医師が、なぜ「一パーセントの可能性でもあれば治療をします」と断言するのでしょうか。私には理解できませんでした。一方的な説明だけでなく、せめて「次の抗がん剤治療はどうしますか?」と、当事者である夫と私に聞くべきではないかと思います。
(p.128-9 ゴチックはspitzbiara 以下同じ)


その後も、苦しい症状にはおざなりな対応しか得られないまま
さらに治療を強要される辛さから、夫は妻に治療中止と帰宅の希望を訴え続けるし、
妻もそれなりに医師や看護師に訴えているのだけれど、
治療続行を既定路線とする医療職から説得されてしまうもどかしさが
書き連ねられている。

その頃のカルテの記載。

 患者本人には「管を全部取ってください。この病院から早く出してください」と言われた。現在の治療方針に対して相当不満がある様子で、治療、介護を含め、繰り返し不満を話される。その都度、薬の説明、データの説明を繰り返すも聞いていない。そのような内容を求めているのではない、説明がまったくないと怒りをぶつけられる。「今の状況が改善しないのであれば、治療をしてもらっているとは言えない」とも言われた。まずはCTをとってからのことであるが、現状ではこれ以上の対策はなく、一度血液内科、内科で協議し、本人、妻の前で治療方針を決める必要がある……
(p. 130 )


このすれ違い方、ものすごくよく分かる。

薬やデータなどの「医学的事実」を説明することが「説明」だと思っている医師と、
こうして苦しみ、不安に悶えている私をあなたはどう助けてくれるつもりなのか、と
説明を求めている患者との間にある、超えがたい溝――。

たとえば、夜勤の看護師のカルテ記載にあった患者の言葉。

しんどいよ。眠れないしね。もともと入ってきた時は管がほとんどついていなかったのに、今はこんなについていて動くのに邪魔。……血小板の値はよくなっているのかもしれないが、病気がよくなっているとはまったく思えないね。治療、治療というけど楽にしてあげようという気はないんでしょう? しんどい、だから楽にしてくださいよ。脾臓をとったからってなにもよくなってないじゃないですか。この病院は患者のことを考えていないのだ
(p. 133)


同じ日のカルテ。

『「しんどいのを何とかしてほしい。点滴にずっとつないだままで人間の尊厳をどう考えているのか、日本の医療制度はおかしいのではないか。一瞬でも家に帰らせてほしい」と訴えた』とも書かれていました。

 それに対して研修医のアセスメントは『多訴だが結局は倦怠感を何とかしてくれということ。治療に積極的なわけではない。希望があるなら緩和への移行も考慮していいか』と記されていました。

 しかし、B内科主治医は『「しんどいのは病気のためであり頑張ってもらうしかない。もっとしんどい患者もいる。効果が期待できないわけではないので、血液内科主治医と相談して治療を続けさせてください」と返答した』と記しています。
(p. 134)


その翌日のカルテのI血液内科主治医の記載。

不眠への対応としては、精神科で処方されて使用しなかった睡眠薬を使用すること。腹部膨満・下腿浮腫はすでに各種治療を行っており、改善は困難である。今ホスピスに行かせて治療中断はしたくない。緩和ケアチームの介入について説明をし、了解を得た。
(p. 137)


さらに翌日。著者の記述。

 朝、八時半ごろ、内科のB主治医とC医師が来室し、「兼任ですが、緩和ケアチームが動きだした。ホスピス医もよく知っているが、治療効果もあるので血液内科主治医と話し合って進めたい」とまったく患者・家族の意向に反する言葉をかけられました。

 死期が迫っている患者に今さら緩和ケアチームの介入をして、なにをしようとしているのでしょうか。患者、家族は「病院から出たい、とにかく家に帰りたい」と切望しているのに、どうしてもホスピスも在宅も許さないということでしょうか。病院側の対応は、理解に苦しむものでした。
(p. 138)


そして、同日午後にはCT検査が行われている。

 移動等が苦痛で大変な状況の中で、午後3時から1時間かけてCT造影がなされました。検査を拒否することもできず、送り出すことしかできないのが悔しくて、情けなく思いました。

 カルテには、『撮影中、仰向けになるため、浅表性速迫呼吸となり、終わるまで酸素量を増やし続けた。気質後も酸素量を上げて対応した』とありました。このころ夫は仰向けになると呼吸困難となり、ベッドを半座位まで上げて過ごしていました。

 しんどい思いをして治療効果のデータを求める検査が、本当に、このタイミングで必要だったのでしょうか? 私には疑問でなりません。
(p. 140)


4日後、呼吸状態の悪化から意識混濁が進み、嗜眠状態に陥るが、
それでもまだ医師は利尿剤とアルブミンと抗生剤を追加。


……そばで夫の状態を見ていて、もう長くないと思って、治療は拒否したいと思いました。「とにかく何もしないで、そっとしておいてほしい」と、私は叫びたい気持ちでした。その元気もないほど、私自身も極限状態で、医師のやり方に納得いかずに無力感に支配されていました
(p. 149)


翌3月12日。うわごとを言い、呼びかけにも反応しない。

 七時過ぎにB内科主治医とC医師の来室があり、「感染症はなさそうで、肝臓の数値は正常。レントゲンの結果から腹水、胸水が溜まっていることが明らかで、それらが原因で、呼吸困難がある。尿量も減少し、二種類の利尿薬を追加した。悪性リンパ腫のせいでセイトカイン血症を起こしている」と説明を受けました。

「夫は今の状態からどうなるのですか? もう死が迫っているんじゃないですか? 私はどうしたらいいんですか?」と聞きたかったのですが、怖くて聞けません。しかし、「あれこれ処置をしながら苦しい状況の中で、生命が潰えることを本人は望んでいないと思う。せめて処置をやめてほしい!」と自分を奮い立たせてやっと訴えました。B医師は沈黙したままでした。

…(略)…

 朝10時には外科主治医が来室し、創部のガーゼ交換をしました。「ドレーン部の乾き良好です、もう少しです」と言われました。もうすぐ、命が潰える状況の中でなぜ「もう少しです」なとど言えるのか……。医師は本当に病気、症状のことしか見ておらず、もっと違う言葉のかけ方があるのではないかと憤りを覚えました。

 十時半、この期に及んで、まだアルブミン輸血をされました。そのころ、夫は「ようちゃん、ようちゃん」(私の愛称)をしきりに呼んでいました。夫の手を力いっぱい握って懸命に「ここにいるよ! 今までありがとう、ありがとう! 幸せでしたよ!」
と涙を流しながら伝えることしかできませんでした。

 病棟看護師長の来室があり、「まだ、呼びかけに反応されるからいいですね」とだけ言われました。私は、「え、その後の言葉はないの? しっかり声掛けしてあげてくださいとか……。同じ看護職でしょう!」と思い、言葉を失いました。と同時に寂しい思いをしました。
(p.152)


11時に下顎呼吸となり、意識がなくなる。
午後から夜にかけて家族が集まり、朝まで感謝の言葉を伝え続ける。

13日の朝。

 朝九時半、血圧が80台に下がり、利尿薬を注入されました。「お願いですからこれ以上何もしないでください」と懇願し、抗生物質の注入は拒否できました。しかし、「点滴のラインは残しておきたい」と言われて、あれほど本人が嫌がっていたチューブは最後まで残されたままでした。

 十二時には血圧が50まで下がり、12時半に息を引き取りました。
(p. 155)


ご夫婦とも、どんなに口惜しく、無念だったことだろう。

「1パーセントの可能性でもあれば治療をします」と回答されて
主治医を変えてもらうほど激怒した後で、著者は夫から
「こんな医療ではだめだ、必ず、手記を出して世に訴えよ」と言われていたという。

山本さんは、その後、大学院に進み、修士課程を卒業。
この闘病記を執筆中に、自身のガンがわかった。

夫のときの経験から、迷わずに在宅ホスピスを選択し、
息子さんのあとがきによれば、穏やかに亡くなったとのこと。

            ―――――

生前、優秀な保健師として溌剌と働いていた山本さんを知っている私は、
この手記を読みながら、なぜ、あの山本さんが、こんなに医師に対して弱気なのか、
はがゆくてならなかった。

ページの中で、唇を噛み、言いたい言葉を飲み込んで耐える彼女に向かって、
「なぜ? どうして、もっと主張しないの? なぜ、闘わないの?」と
心の中で何度も、けしかけた。

でも、このエントリーの原稿を書きながら、149ページの
「私自身も極限状態で、医師のやり方に納得いかずに無力感に支配されていました」
という言葉を読んだ時に、分かるような気がした。

愛する家族への心配でやきもきしながら、ありとあらゆる感情にさいなまれ、
日々ちょっとした変化やデータに気持ちがアップダウンする連続の中、
家族は心身ともに疲れ果てて、まさに極限状態。

愛する人を失うことへの不安と悲嘆に心も揺らぎ続ける。

そこに医療職の無神経な言動に傷つけられ、
悲しみや悔しさや怒りに心が大きく揺さぶられて
さらにエネルギーを消費させられてしまう。

総合病院の強固な医療ヒエラルキーの文化の中に身を置き続け、
そうして疲弊していく時、

絶対的権威として振舞う医師の前には
あんなにテキパキとものを言い、行動していた切れ者保健師ですら、
こんなにも自己を主張する気力をくじかれてしまうのだ……と。

最後に著者は、尊厳死の実現を訴えているのだけれど、
それは違う、と私は思う。

以前から繰り返し考えてきたように、

尊厳死の問題は、実は終末期の医療のあり方というよりも、
むしろ、医療は誰のために行われる誰のためのものなのか、
言い換えると医療の主体は誰か、それを踏まえて、
医療については誰がどのように決めるべきか、という、

医療のあり方そのものに関わる、もっと本質的な問題なのだ、と。