高草木光一編『思想としての「医学概論」 ー いま「いのち」とどう向き合うか』 1


2012年度慶應義塾大学経済学部専門特殊科目「現代社会史」(春学期集中)での
著者4人の講義と、その後に行われたシンポジウムの内容を中心に編集されている。

2013年に刊行された時に読もうとして、
ほとんどチンプンカンプンだったのだけれど、
訳あって再読にチャレンジしている。

今回も
西洋哲学についても日本の思想についても知識が圧倒的に不足している私には
相変わらずチンプンカンプンのところも多いものの、
今回はちょっとマジで読んでおきたいので、
分かるところだけになるけど、メモとして。


まず、編者の高草木氏は「はしがき」で、

iPS細胞の開発でノーベル賞をとった際に山中伸弥氏が
倫理問題を強調して応用への慎重を呼びかけたことから話を起こし、
生殖補助技術、臓器移植技術、原発事故に触れて、以下のように
本書の意図を解説している。

……いま原子力を棄て去ることは現実的な選択肢として目の前に置かれている。それと同じように、医学・医療の進歩にも歯止めをかけなければならないときが迫っているように思われる。どこかで歯止めをかけなければ、とてつもなく歪な格差社会、管理社会を招来してしまうかもしれないし、それどころか人類は生き延びる術を失ってしまうかもしれない。「いのち」への希望が喧伝されるいまこそ、「いのち」の危機を痛切に感じざるを得ない。

 このような「いのち」の危機の時代、そもそも医学・医療とはなんだったのかを改めて問うてみたい。死を免れ得ない脆弱な個別の「いのち」を暫定的に救うことにどのような意味があるのか。そこにどんな問題群が存在しているのか。それを、歴史的にも、理論的にも、総合的に捉えてみたい。そんな素朴な願いから本書は生まれた。逆に言えば、医学書の類をいくら繙いても答えは見つからず、手探りでつくりあげるほかなかったのである。

…(略)…

「いのち」の危機の時代であるからこそ、医師でないものが医学や医療について語る必要性、重要性はますます大きくなっている。山中伸弥氏が率直に述べているように、いまや医学・医療の現状は専門家に任せておける段階を通りすぎてしまっている。問題を整理し、社会的合意のために共通の言語をつくっていく作業は、専門技術者の手には負えない。専門外の者こそがその任にふさわしい。
(p.ⅶ)


その先例として何度も言及されるのが
澤瀉久敬(おもだかひさゆき)の『医学概論』全三巻(1945-59)。

澤瀉は医師ではなく、フランス哲学研究者。
大阪帝国大学医学部で、1941年4月から
日本で最初といわれる「医学概論」を講義した人物。

この「はしがき」は、そのまま第1章にあたる
高草木氏による「澤瀉久敬『医学概論』と三・一一後の思想的課題」に続いていく。

澤瀉久敬の『医学概論』とは、
現在の「医学全般の歴史や現状に関するハンドブック的な」「医学概論」とはまったく無縁で、
澤瀉自身は「医学の哲学」と説明しており、
「いわば医学の基底的部分を担う固有の領域として」構想されていた、という。

そして、そこには、医師でない立場からの大胆な医学・医療批判が含まれていた。

今後の「ありうべき医学」を構想しながら、「医学の哲学」を語ったのです。(p.10)

いまだバイオエシックスインフォームド・コンセントの概念も導入されていない
当時の日本で、医療者の倫理として「医道」を説いている、
その根幹にあるのは「生命への畏敬」であったとして、
著者は以下の澤瀉の言葉を引用する。

医療の体験を深めるほど、自然治癒力の偉大さが実感せられ、人間の無力がかえって痛感されてくるのではないでしょうか。生き得たものを殺すことなく、無用の投薬や手術を避け、生きうるものを生かし、死にゆくものを安らかに死なせることこそ医道であるとの達観もそこから生まれるであろう。そこに始めて医師の謙虚さが生まれ、生命への畏敬の念も生ずるのである。[澤瀉『医学概論 第三部』二九三頁]
(p.18)


私もこの「生命への畏敬」の念について、
拙著『死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(大月書店)で
以下のように書いた。

“コントロール幻想”の合理の世界の救いのなさは、合理で割り切れないもの、かけがえのないものが失われていくことだと思う。そこでは人間の力を超えるものが存在しなくなり、人のはからいを超えた「大いなるもの」への畏れが失われていく。
(p. 201)


その直前では以下のように「命」と「いのち」を使い分けてもいる。

 ひとつの死は大きな自然の中に無数にある死のひとつにすぎないし、一人の人間の生だって所詮は多くの生のひとつにすぎない。けれど、そのひとつひとつはみんな大きな自然の営みの中にあり、そのことを通じて、おおいなる「いのち」とつながっている。そんな「いのち」とつながって、そこに包み込まれつつ、私たちはそれぞれに固有の小さな命を、その小さな喜びや悲しみや痛みと共に生きる。その抜き差しならない、思うようになることの少ない命を通じて大いなる「いのち」を生きている。

 ひとつひとつの命が大切なのは、その個々の命が他よりも優越しているからでも、他の命よりも社会にとって有用や有意義だったりするからでもなく、ひとつひとつの命がすべて私たち一人ひとりの存在をはるかに超えた大きな「いのち」とつながり、その中に包まれて、また同時にその「いのち」を自らのうちに包み込んで、そこにあるがゆえに大切なのだ、と思う。
(p.200)


その意味で、個人的に興味深かった箇所は、

「いのち」と「くらし」は英語では同じ<life>で表され、「いのち」の再生産として、つまり活力を日々回復させ、次世代を産み、育てる場として「くらし」がありました。その本来切り離せないはずの「いのち」と「くらし」が、いま乖離あるいは敵対しあっているように見えます。
(p. 37)


私も、医療職の方々に向けてお話させてもらう場があれば、
そこで私たち当事者と医療職の間にある意識のギャップを説明しようとする際に
<LIFE>という言葉を使う。

例えば、今年6月の小児神経学会での発表で以下のように語っているように。

日ごろ感じているギャップの一つに「生活」と「医療」の関係性というのがあるんですね。

ここで「生活」というのは、英語のLIFEのように、人生、生きるということまで含めた広いイメージなんですけど、ここではとりあえず「生活」という言葉で代表させてみている、というものです。

本人と家族にとっては「生活の中にあくまでもその一部として医療がある」という感覚なんですけど、医療職の方と話していると、どうも「医療の中に生活がある」、「医療のほうが生活よりも大きい、優先」という感じがします。

施設も、親としては、まず生活の場であってほしい。でも、その親の願いは、往々にして病院の文化や価値観との間で、せめぎ合います。これは、在宅のご家族も、さまざまな形で感じておられるギャップではないかと思います。


そこで本書P.37の記述を読んで、ふっと頭に浮かんだのは、
ひらがなの「いのち」って、LIFEには含まれ得ないんじゃないだろうか、ということ。

漢字の「生命」とか「命」は含まれるとしても、
ひらがなの「いのち」はLIFEという表現には収まりきらないのでは?

それは、むしろ<INOCHI>とでも表記する以外にはないものでは?

もちろん高草木氏が分断し敵対させられているという「いのち」と「くらし」は、
私がいう「医療」と「生活」とも、「命」と「いのち」とも
重なり合うわけではないので、

氏の表現からこのように考えたことが私にとって何を意味するのかは、
私自身がこれから考えてみるべき課題なのですが。

次のエントリーに続きます)