岡本太郎 『自分の中に毒を持て』

訳あって、このところ「いのち」について考えている。

そんなさなかの先週、
娘の施設恒例の「日帰り旅行」に母娘で参加したところ、
こちらのブログでおなじみ海の愛しのHさんをはじめイケメン男性職員3人が
海を取り囲んで写真を撮ってくれる……ということに。

その「ハーレム状態」のあまりの嬉しさに、海はまずパニック気味となり、
次いで、全身で「ぎゃーははっ」的に喜びを炸裂させた。
加えて、母が珍しく、前者と後者の瞬間を写真に上手に収めることに成功。

写真を加工する技術がないのでここでお見せできないのが残念なんだけれど、

その「ハーレム状態」と名づけた2枚シリーズがあまりにオモロイので、
つい親バカはあちこちにメール添付にて見せびらかした。

すると、めちゃ本読みのある方が、
海のその弾け方に、岡本太郎のいう「爆発」だと思った、と、
岡本太郎の文章の一節を送ってくださった。

それがまさに今あれこれと考えている「いのち」にドンピシャだったんである。

なので引用先の文庫を買うべく、アマゾンに走ると
1993年の本がベストセラー1位というのに、びっくり。

そして昨日、一気読みした。

それが、これ ↓



まず、この本を読むきっかけになった、
海の「ハーレム状態」写真から送ってもらった引用箇所は以下。

 ぼくが芸術というのは生きることそのものである。人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命をつき出し爆発する、その生き方こそが芸術なのだということを強調したい。

芸術は爆発だ

……(略)……

 全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッとひらくこと。それが「爆発」だ。人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発しつづけるべきだ。いのちの本当のあり方だ。
(p. 190-191)


この下りは終章の後半にあり、この本の要諦のような辺りなので、
ついでに、この前後から、いくつか拾っておくと、

 芸術といっても、なにも絵を描いたり、楽器を奏でたり、文章をひねくったりすることではない。そんなことは全くしなくても、素っ裸で、豊かに、無条件に生きること。

 失った人間の原点を取り戻し、強烈に、ふくらんで生きている人間が芸術家なのだ。
(p. 188)


 人間の生命、生きるという営みは本来、無条件、無目的であるはずだ。なんのためにこの世に来たのか。そして生きつづけているのか。本当を言えば、誰も知らない。本来、生きること、死ぬことの絶対感があるだけなのだ。
(p. 197-198)


……人間は本来、非合理的存在でもある。割り切れる面ばかりでなく、いわば無目的な、計算外の領域に生命を躍動させなければ生きがいがない。ただの技術主義だけでは空しい。進歩、発展に役立つという、条件付けられた技術ではなく、まったく無償に夢をひろげていくこと。ナマ身で運命と対決して歓喜するのがほんとうの生命感なのだ。そのような全存在的充実感をとり戻すのでなければ、何のためのテクノロジーか、とぼくは思う。

 これはそのまま、真の生き方、人間性、つまり芸術の問題でもある。
(p.20102)



 ぼくがここで問題にしたいのは、人類全体が残るか滅びるかという漠とした遠い想定よりも、いま現時点で、人間の一人ひとりはいったい本当に生きているだろうかということだ。

 ほんとうに生きがいをもって、瞬間瞬間に自分をひらいて生きているかどうか。

……(略)……

 強烈に生きることは常に死を前提にしている。死という最も厳しい運命と直面して、はじめていのちが奮い立つのだ。死はただ生理的な終焉ではなく、日常生活の中に瞬間瞬間にたちあらわれるものだ。この世の中で自分を純粋に貫こうとしたら、生きがいに賭けようとすれば、必ず絶望的な危険をともなう。

その時「死」が現前するのだ。惰性的にすごせば死の危機感は遠ざかる。しかし空しい。死を畏れて引っ込んでしまっては、生きがいはなくなる。今日はほとんどの人が、その純粋な生と死の問題を回避してしまっている。だから虚脱状態になっているのだ。
(p. 217)



これだけ引けば十分なような気もするのだけど、
せっかくなので、特に印象に残ったエピソードをいくつか。


● 第2次世界大戦勃発直前に30をすぎて12年間を過ごしたパリから帰国すると
著者は兵隊にとられる。異国での新兵としての過酷な訓練。
ほふく前進で息も絶え絶えになった時のこと。

 また「付せーっ」という号令。息もたえだえで地面にはいつくばったとき、ぼくの目の前に小さな花がゆれているのを見た。雑草の中に、ほとんど隠れるようにして、ほんとうに小さい、地味な、赤っぽい花だった。

 そいつと鼻をつきあわせて、ぼくは、いのちがしぼりあげられるような感動にふるえた。

 こんなに広い大陸の、荒れた原野で、これっぽっちの、小さい、何でもない“いのち”。おそらく誰にも見られることのない。オレのような、惨めな初年兵が偶然にも演習で身を投げ出したから、はじめて目を見はったのだが。

 だが何という美しさなのだ。小さい、その全身を誇らかに、可憐に、なまめかしくひらいて、はてもなく青いこの空の下に咲いている。
(p. 60)


● 「出る釘は打たれる」ということに対する著者の姿勢が、新鮮で面白かった。

 確かに、出る釘なんて恰好よくない。しかし、運命として、なんとしても出ずにはいられないから頭を持ち上げたという感じ。それに対してこの世界は冷たい金槌で容赦なくピシャリと叩きのめすのだ。

 ぼく自身、それを生涯、骨身にしみて味わったが……
(p. 91)


小学校に上がってすぐの授業でのエピソード(p.92)が、
「金槌」の本質をあぶりだしている。

当時の子どもは読み書きなんかできないまま学校に上がる。

先生が「一から三まで書けるものがいるか」と問う。どうせいまい、という前提で。
そこへ著者が勢いよく手を挙げ、じゃあ前に出て書いてみろということになる。

一生懸命に書いて四まで書いた時に、先生は「ほうら、違うじゃないか!」と止めた。
四の書き順が違うと得意然と間違いを指摘し、「なんだ書けないくせに」と見下すのだ。

ぼくはさっき、「出る釘になってやる」と言った。これは決してぼくだけの問題じゃない。生きがいをもって生きようとするすべての人の運命なのだ。人によって条件はさまざまだろう。……

 純粋に強烈に生きようとすればするほど、社会のはね返しは強く、危機感は瞬間瞬間に鋭く、目の前にたちあらわれるのだ。

 いつでも「出る釘は打たれる」。

 だからといって気を遣って、頭を引っ込めてしまっては、人間精神は生きない。逆に打たれなければ――。「打ってみろ」と己をつき出す。打たれることによって、自他をひらくのである。ますます拡大して爆発する存在になるのだ。
(p. 113-114)


● 著者が身体障害者の音楽家と接した時の、エピソード(p.105)も興味深かった。

 その人は、車イスで身をよじりながらハーモニカで自作の曲を吹いた。
 やがてオーケストラと歌手がそれに合流した時、彼のほほに涙が流れるのを見て、
 著者は「ひとつのささやかな運命がクライマックスに達した瞬間」に
「異様な感動」を覚えた、という。

 あのゆがんだ手、足。動かない、もどかしい、ひんまげられた人生。ぼくはそこに、逆になまなましい「人間」の姿を見る思いがした。このように残酷に象徴化されているが、実はこれこそ人間そのものの姿ではないか。

 人間だれでもが身体障害者なのだ。たとえ気どったかっこうをしてみても、八頭身であろうが、それをもし見えない鏡に映してみたら、それぞれの絶望的な形でひんまがっている。しかし人間は、切実な人間こそは、自分のゆがみに残酷な対決をしながら、また撫でいたわりながら、人生の局面を貫いて生き、進んでいくのだ。

……(略)……

 自分のひそかな歪みにたえながら、それを貫いて生きるしかない。そして救われたり救われなかったり。目をこらして見れば、それがあらわに人間生活の無限のいろどりとなっているのが見えるだろう。
(p. 106)


● 「美しい」ということと「きれい」ということの違いについて。

 ほんとうに生きようとする人間にとって、人生はまことに苦悩にみちている。

 矛盾に体当たりし、瞬間瞬間に傷つき、総身に血をふき出しながら、雄々しく生きる。生命のチャンピオン、そしてイケニエ。それが真の芸術家だ。

 その姿はほとんど正視にたえない。

 この悲劇的な、いやったらしいまでの生命感を、感じとらない人は幸か不幸か…。

感じうるセンシーブルな人にとって、芸術はまさに血みどろなのだ。

最も人間的な表情を、激しく、深く、ゆたかにうち出す。その激しさが美しいのである。高貴なのだ。美は人間の生き方の最も緊張した瞬間に、戦慄的にたちあらわれる。
(p. 180-181)


最も深く心に刻みたいのは、ここかな。

このように苦しみながら全力を尽くして生きようとする人が、
自分を脅かしてくる諸々にもかかわらず、勇気を振り絞り、
「今ここ」という瞬間に自分のすべてを賭けていこうと
無償、無条件に自分を研ぎ澄ませつつ、解き放つ時、

美は人間の生き方の最も緊張した瞬間に、戦慄的にたちあらわれる――。