高草木光一編『思想としての「医学概論」- いま「いのち」とどう向き合うか』 2

前のエントリーからの続きです)


なぜ、いま澤瀉『医学概論』なのか――。

これが、
高草木氏の論考「澤瀉久敬『医学概論』と三・一一後の思想的課題」のテーマだと思うので、

西洋思想史的な素養がないために読みきれないところはすっとばして、
分かる範囲、読み取れた私の理解の範囲でまとめてみる。

著者は、
「産学協同」に関する意識が
「1960年代と1990年代以降ではまったく逆方向になった」(p.22)ことや、
原発の使用済核燃料の処理問題や生殖補助技術の進歩など、
近年の科学技術と政治の気になる動向を展望しつつ、
近代思想が「これから生まれる子ども」の意思や人権問題を組み込んでこなかった陥穽を指摘。

澤瀉『医学概論』はそうした近代への批判であり、
その超克を意図したものだったが、

時代性を背負い、優生思想や優生学から自由ではない。

だからこそ、
出生然診断や脳死・臓器移植や尊厳死の問題を通じて
優生思想が再び色濃く浮かび上がってきている現在、

「私たちがつくるべき新しい「医学概論」の礎として優生思想の拒否がなければならない」
(p. 68)

つまり、本書は、
こうした「いのち」の危機の時代に必要な、
新たな「医学概論」を私たちみんなでつくろう、という試みなのだ。

近代の超克について著者は以下のように書いている、

……「不在の未来世代」を私たち自身が内面化していくという地道な営為の中にしか、近代的思考の陥穽を生める手だてはないし、その内面化はおそらく協働の運動の中にしか見出すことはできない。
(p. 33)


そして、その協働への希望を、
福島の原発事故や水俣病事件における市民や被害者の変貌に見る。

 こうしたなかで、唯一の希望は、逆説的ではありますが、「いのち」が侵犯されるとき人は「思想家」となり「科学者」とならざるをえない、ということです。
(p. 39)


例えば、熊本学園大学水俣病研究センターでは
「素人と専門家」の区別を排した水俣病講座が組まれたが、それは、

……まさに「普通の人々」が「思想家」となり「科学者」となったからでしょう。……(略:原田正純医師の編著書から)……水俣病の患者家族をはじめ、研究者ではない当事者の方々が鋭い考察を行っていることがよく分かります。
(p. 40)


なぜ今、澤瀉「医学概論」なのか?

……いま、医学や医療のあり方を、澤瀉久敬が試みたように、科学論や生命論という大きな視点から、さらに社会科学的な視点から、根源的に考え直すときがきていると考えます。
(p. 72)



「はしがき」と最初の章を再読して、頭に浮かんだのはトランスサイエンス

リンク先で北田氏が科学教育の領域でやろうとしているトランスサイエンスとは
「民主的な議論によって問題を解決してい」こうとする営為のこと。

この「民主的な議論」がどのように可能か、その具体的なモデルのひとつが、
本書では、素人と専門家の区別を排した水俣病学に見出されているのだけれど、

いっぽうで、なかなか変わらない医療現場の現実を見た時に、
「民主的」ということから最も遠いのが医療の世界であるとも思えて、
結局、頭が戻っていくのは、澤瀉が説く「医道」の根幹としての
「医師の謙虚さ」と「生命への畏怖」。

だから、いまこそ
医療と無縁な人などどこにもいないのだから、
素人も専門家も区別なく、みんなで新たに作り出す、
医療の哲学としての『医療概論』を――。


ちなみに、高草木氏はシンポジウムの締めくくりで以下のように述べている。

 この企画は、すでに述べましたように、澤瀉久敬『医学概論』全三巻をベースにして、「いのち」の危機の時代に見合った、新しい「医学概論」を構築することにありました。新しい「医学概論」を目指して、私を含めて4人で講義やシンポジウムを行ない、やっと到達したのが、「ゼロ地点」だったのだと思います。……私たちの講義を聞いてくださった方の中からも、おそらく新しい「医学概論」が目指されるでしょうし、私たち四人の間でも、今後さらに大きなスケールで問題を展開できる機会が来ることを祈っております。
(p.386)