田中智子論文「障害者家族におけるケアの長期化と家族内部の不平等」

「障害者家族におけるケアの長期化と家族内部の不平等」
田中智子 『日本の科学者』 Vol.51 No.2 February 2016


著者は既に、2010年の論文で
所得を5つの階層に分けた最も低い階層に所属する人の割合が
知的障害者を含む世帯では一般世帯の2倍以上という結果と、
その原因に母親の不就労との強い関連を報告している。

「もっぱらケアを引き受ける女性には、
所得や社会資源、権力の分配において不平等状態が引き起こされがちとなる」ことから、

世帯ごとの所得の低さだけでなく、家族内部の配分状況も可視化すべく、

家計簿式調査により、
知的障害者の家族における「障害者を中心とした家計状況」を明らかにし、
家族の「二次的依存」から「親亡き後」問題へのつながりを指摘するもの。

調査は2011年11月に行われ、
日中活動として福祉施設を利用するもののうち
家族同居の人66名とGHで暮らす20名。

X市内居住の家族のネットワークを通じての調査だったため、
比較的重度の人に偏っている。

本人の平均年齢はGHの方が4歳ばかり高く、
単身世帯の割合もGH(45%)が家族同居(9.1)より圧倒的に高い。

このことから、著者はGHへの移行が、
親の高齢化、単親化、世帯の小規模化などにより
「家族内でケアの担い手の確保が困難になることによる」と推測。

調査から浮かび上がったのは、
「家族の生活を後回しにしつつも、障害者への支出水準は維持される」
「障害者優先型の家計」。

具体的な課題としては、

同居でもGHでも、家族による生計費の補填により本人の生活が成り立っている

本人の収入(主たるものは障害基礎年金)から1ヶ月あたりの支出を差し引くと、
家族同居でマイナス3万6805円。
GHでマイナス2万7472円。

一方、幼少期から続く生活の中でこの負担は親に自覚化されていない

「ケア費用」の同定の困難

パニック予防のための散歩やドライブ、こだわりに対応するための物品購入など
障害にかかる追加的費用は一般の生活費から区別が困難。

障害者の暮らしの多様化の一方で年金や手当ては増額していないため
家族の経済負担に転嫁されている。

GH利用者の自己負担分はほぼ障害基礎年金2級全額と同等。

給食、送迎費、ガイドヘルパー利用に関わる費用などの固定的費用は
世帯によっては他の家族の生活を犠牲にして賄われている可能性もあり、

また高齢化で家族の所得が減少すると負担が相対的に増大することに加えて、
家族のケア力低下を補うための費用も追加されていく。

多様化した社会資源のマネジメントも親が担っている

「本人の状態や生活にサービスを合わせるのではなく、
サービスに生活を合わせるという「ケアの標準化」という現象が生じている」ため、
親は負担を引き受けつつ、選択に自信がもてないでいる。

専門家との共同関係の中で
「育ちのプロセスの確認をしながら」選択していけるための支援が必要。


著者はこれらの結果の背景に
「家族を含み資産とみなす社会構造」を指摘する。

そして、そうした構造の中でケアを引き受けている家族に生じる問題として
ファインマンのいう「二次的依存」を指摘。


そして、その二次的依存が、
湯浅誠のいう「自分自身からの排除」に行き着く危険性を指摘。

湯浅誠の『反貧困』については、こちらに ↓
「反貧困 ──『すべり台社会』からの脱出」(2008/6/5)

ケアラー役割を降りることを想定できない状況で
同世代に比べて生活や人生の選択肢を制限されて暮らし続けている親には、
アイデンティティの危機が生じている、とし、

それが親亡き後への問題に接続しているのではないか、という問題意識から、

入所施設で何年も生活してきた我が子を
高齢化した親が手にかける事件の多発へと著者は目を向ける。

なぜ、親たちは日常的なケアを社会に委ねた後に子どもに手をかけてしまうのだろうか。


つまり、日常的なケアを社会に委ねた後も、ケアの第一義的責任からは、親自身は解放されることはなかったのではないだろうか。そのような中で、ケアラーの役割の終わりが見えないとき、あるいは終わりが見えたとき―いずれの場合にも共通するのは、その役割を自分だけでは完結できないと感じたとき―、子どもを手にかけるという形で強制終了してしまうのではないだろうか。


 障害者の家族の悲劇をなくすためにも、障害者の生活とともに家族の生活のノーマライゼーションという視点からの不平等分配の解消と、家族自身のアイデンティティをケアラーの役割から解放するためにという、ジェンダー視点からの社会的介入が喫緊の課題である。



この10年ほど、
世界で進行していく障害児者の命の切り捨ての実態をウォッチしながら
日本でも同じことがもっと隠微な形をとって進められていることを
肌身にひしひしと感じる中で、

ずっと我が子を抱いてジリジリと崖っぷちに追い詰められていくような気がしている。

一方からは、ずっと「また親が殺した」「親が殺す」「だから親は敵だ」と
指差され続けてきた。

そこに「殺すのは、障害に対する社会の差別意識を親が共有しているからだ」という
決め付けを感じるたびに、「違う!」と激しい反発を覚えるし、

でも「どのように違うのか」を説明する言葉を見つけられず、
捜してみたいと思いながら、その先に足を踏み出すことができずにきた。

それは、説明するために自分の胸のうちを覗き見ようとすることそのものが、
とてつもない勇気とエネルギーを必要とする行為であることや、

一方的に糾弾しようと自分に突きつけられてくる指があることの痛みに
まずは傷ついてしまっていたことなど、様々な要因があったのだと思う。

「社会の差別とは、どのように違うのか」を考えてみたい、
「では、なぜ親は殺すしかないと考えるのだろう」と、
親の立場だから見える角度から考えてみたいという思いはずっとあったけれど、

あるのは「親は○○だ」と現象としての行為を糾弾する声ばかりで、
どこにも「なぜ」と、その背景を問うてくれる視点がないことに、まずは傷ついて、
この難題と対峙する勇気を持てずに来た。

ちょうど医師から「せっかく医学的正解を提示してやっているのに
素人のくせに理不尽な抵抗をする、かたくなな親だ」と決め付けられると、
複雑な思いを複雑なままに言葉にしてみようとする気力をもてなくなる時のように。

それについては、私はここ数年、医療専門職に向けて
そこにある「判定」の眼差しを「なぜ」へと転じてもらえないでしょうか、と
お願いしてきたのだけれど、

この論文は問う。

なぜ、親たちは日常的なケアを社会に委ねた後に子どもに手をかけてしまうのだろうか。


「親が殺す」と一方的に指差すのでも、
「母よ!殺すな」と最後の行為だけを問題にして母に呼びかけるのでもなく、
「なぜ」を問う視点と、この論文でやっと出会うことができた。

ならば、親の一人として、ずっと棚上げしてきたこの問いを
自分に引き受けてみようとする勇気を、私も少しずつ持てる……だろうか。

そんなことを考えている。

著者は2015年には、3つのいわゆる「子殺し事件」から
この「なぜ」を考察する論文を書いている。

それについて、次のエントリーで。