「どんなに重度な人でも」と置き去りにされる「重症児者のニーズ」について 2

(前のエントリーからの続きです)


私自身、母子入園での体験など、
かつての「治す」ための医療としてのリハビリテーションにあった姿勢には
大いに疑問も批判もあるのですが、その後、少なくとも重症児者のリハでは、
「支える」ための医療へと変わっているように思います。

その一例として、
重症児者は、姿勢の調整一つで
呼吸状態が改善したり、身体の緊張が取れてラクになったり、
口から食べることが安定したりします。

そういう形でリハビリテーションに支えられることは、
本人の安楽や命の安定にすら直結しているわけです。


娘はここ最近、30歳を前にして、
にわかに全身状態が大きく改善し、健康度がアップしているのですが、
その背景にも、リハ・スタッフの積極的な介入と柔軟な多職種連携の対応があります。

それについては、前のエントリーにリンクした
公式連絡ノートに記載 文豪支援職のめちゃ嬉しいコメントでも簡単に触れていますが、

具体的にいうと、PTさんの積極的な介入が増えて、
前より頻繁に身体の緊張をゆるめる定期的なリハビリをしてもらえるようになったことと、

さらに、PTさんの提案で、
デイルームで過ごす時間に上半身の下に低反発のマットを敷いてもらってから、
みるみる側わん(背骨のS字状3次元のねじれ)が大きく改善されたこと。

療育園で使っている座位保持装置も、家で使っている車椅子も、
細かく調整しなおしてもらって、体にきちんとフィットしたら、
食事の際のムセも目に見えて減りました。

それらによって呼吸状態があきらかに改善し、身体全体に緊張がほどけてきて、
もちろん誤嚥も減って、体調を崩す回数が激減したばかりか、
たま~に風邪を引いても、ひどくならない。

風邪を引くたびに点滴や酸素マスクのお世話になっていたのに、
もうこの1年間ずっと、点滴も酸素マスクもなしで過ごせている!
1年間ずっと点滴なしで過ごせた、なんてのは、29年半の海史上、初めて!

ただ、このマット導入で、身体がぐんとラクになったのはいいのですが、
海は、体を動かすのをサボるようになってしまいました。

それまではデイルームのフロアで、スタッフにたしなめられるほど頻繁に寝返りしたり、
腹ばいになって自分で戻れなくなって「助けて~」とSOSを出したり、
手足をぶんぶん振り回して踊ったり、いたずらしたりと、忙しいヤツだったのですが、
ラクチンになったら、どで~っと全身をマットに委ねて、動こうとしないのです。

すると、それにいち早く気づいてくれたのが担当支援職。

ちょうど、腰がずっしり、腕もボンレスハム状態とて
「海さん、ちと太ってきたのでは?」という話がチラホラと出ていたところでもあり、
担当支援職は担当ナースに相談。母にも相談がありました。

そういえば家でも風呂上りには、裸のまま自力でさっさと腹ばいになっていたのが、
最近はあまり見なくなっていました。腕の動きも少なくなったといわれれば、そうかも?

それで担当の皆さんに再検討をお願いし、
マット使用は午前と午後のどちらかのみとなり、
さらにスタッフから海が体を自発的に動かすように促す働きかけをしてくださることに。

お陰さまで、身体の力は抜けて側わんは改善したまま
またよく動くようになりました。

先週末の帰省時には、浴槽の中で親に湯をぶっ掛けようと、
腕をぶんぶん振りまくっていたし、湯上りに体を拭いてやろうと
「はい、向こうを向いて」「はい、上を向いて」と言えば、
わざと反対に動く時の、身体に込められる力の、まぁ強いこと。
めっちゃ嬉しそうな顔しくさってからに。

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もう10年以上前のことですが、かつての母親仲間を久々に訪ねた際に、
20代の息子さんが、まったく体に合わないバギーに座らされて、
とても不安定な姿勢でいるのに驚いたことがあります。

いくら年齢の割には小さいとはいえ、
その年齢で市販のバギーに乗っている人を見るのは初めてでした。
みんな、自分の体に合わせた車椅子を作ってもらっています。

バギーの中で体が大きく傾いて、私の目には本人はかなり辛そうに見えるのですが、
お母さんは見慣れているからか、まったく気になっていません。

ちょっと見かねたので、
「PTさんかOTさんに一度みてもらって、
フィッティングをしてもらっては?」と提案してみたところ、
「え? なに、それ?」とびっくりされて、またびっくり。

子どもの時からケアしてきた自分の手馴れた介護で暮らしながら
デイに楽しそうに通っている毎日の生活に親も子も満足していて、
なにも不足は感じていないのに、なんで? という反応。

「リハには、もう行っていないんだ?」と聞いてみると、
幼児期には一生懸命に通ったけど、結局この子の障害は治してもらえなかった、
だからリハビリには今さら何も期待しない、と言われました。

障害そのものは治せなくても、
障害とともに少しでも安楽に暮らすためにできることもいっぱいあるということを
具体的な例を挙げて説明してみたのですが、今の生活で親子とも満足しているのだから、
これでいい、と考えておられるようでした。

後日、彼の通うデイサービス(重症者を含め様々な障害像の方々)に見学に行く機会があったので、
管理者の方にリハ職の関与について聞いてみたところ、やっぱり皆無とのことでした。

経営的にリハ職を置くのは無理だというお話は、ごもっとも。

ただ、お話していると、問題のありかはそれだけでもない感じ。

どこか彼のお母さんと同じく、必要性そのものが腑に落ちていない。
リハビリテーションに何をできるか、そのポテンシャルが実は見えていない。
見えていないから、優先順位がものすごく低いままになっている。そんな感じがするのです。

やはり、管理者にとっても、それなりに成り立っている生活の中に「ない」ものは、
「ない」ことが見えていないのだろうなぁ、という印象でした。

デイのスタッフに、ニーズさえ「見えて」いれば、
療育センターのリハ外来にお母さんをつないであげることもできたはずなのになぁ、と
彼がバギーで不安定に座らされている姿勢を思い、とても残念でした。

そのことを最近よく思いだします。

相模原の事件からの議論で、「どんなに重度の人でも
(GHと重度訪問介護さえあれば)地域で自立生活を送ることができる」などと
言われるのを聞くたび、重症児者のニーズは「知られて」いないのでは、と、疑問を抱くからです。

重症児者は、リハビリテーション
成長に伴う重度化をある程度防げるし、

姿勢の調整一つで呼吸状態が改善したり、
身体の緊張が取れてラクになったり、口から食べることが安定するのに、
そして時にはそれは本人のいのちにすら関わっているのに、

そうしたPTやOTやSTによるリハビリテーションのニーズがある人たちが
自分で不快を訴えることができないために、ニーズを満たされないまま暮らしていても、
周囲の人たちにニーズそのものが「見えない」ならば、
「ヘルパーの介護を受けて楽しく暮らしていますよ」ということになってしまう、
ということは、本当にない、でしょうか?

また重症児者は高齢化に伴い、身体に細かい変化が起こってきます。

ウチの娘では、
立つことも歩くこともないための骨と筋肉の発達の不均衡で、
膝や股関節が拘縮して、片方の股関節は脱臼しています。
最近になって、片方の足の親指が亜脱臼になりました。
これも彼女の高齢化に伴う重度化の一つの顕れです。

また片方の足首が
最近になって急に大きくねじれてきました。

身障や軽い知的障害の人なら、そこで不快感や痛みがあって
異変を自分で訴え、受診することもできるのでしょうけれど、
重症児者ではそれができません。

ウチの場合、いずれも気づいたのは週末に脚のマッサージをしてやる母親でした。
それは母親に30年間の娘の医療をめぐる知識と体験の積み重ねがあって
初めて気づけることです。

(そうして長年にわたって積み重ねてきた固有の人の医療的配慮の体験知は
決して情報として文字化して伝えられるような性格のものではありません。
そこにも重症児者の親の、親亡き後への大きな不安の一つがあるように思います)

もちろん、重症児者のリハビリテーションに精通したリハ職が
定期的に介入していれば、そのうちには気づいてもらえるのでしょうけれど、
一人で多数を担当しておられるうえに、担当も替わります。
専門職は「今」とか「最近」は分かっても「以前と比べての変化」は見え難いものです。

母親が気づいた異変を看護師さんに伝えると、
すぐに整形の先生がデイルームに診察に来てくださって、
別の日に私が外来で、担当看護師さんと共に説明を聞きました。

どちらの異変も、ひどくなったら手術を含めた対応が必要になるかもしれませんが、
とりあえず要観察となり、看護師さんから他の看護職にも支援職にも状況を共有してもらいました。

担当リハ・スタッフが定期的に関わってくださっているので、
問題のありかを親が発見した後は、安心して委ねることができます。

身障単独や知的障害単独の人の支援者の中には、
「必要時間を埋めることができるヘルパーの人数さえ揃っていれば、
どんなに重度な人でも自立生活はできる」という感覚で簡単に議論を進めていかれる方がありますが、
特に本人の高齢化、重度重症化に伴って起こる変化まで見通した時には、
そこには「知らないということすら気づけない」ほどに「見えていない」ことが
ありはしないでしょうか。