「どんなに重度な人でも」と置き去りにされる「重症児者のニーズ」について 3

(前のエントリーからの続きです)


食べることについて

海は、幼児期から長い間、刻み食で大丈夫で、
水分もそのままの状態でコップやストローで飲むことができていましたが、

その後、少しずつ飲んだり食べたりすることが難しくなって、
いくつかの段階を経て、現在は全粥(家ではたまに軟飯)、おかずは「なめらか食」
水分はとろみをつけたものを平たいスプーンで少しずつになっています。

時間もかかりますし、誤嚥のリスクも常に伴います。
食もまた、重症児者には命に関わる大きな問題です。

療育園で提供してくださる「なめらか食」はとても手間のかかる形態ですが、
重症児者施設ではそれぞれに様々な食形態の工夫が実践されており、

そうした食形態に工夫した食事を提供してもらっているからこそ
口から食べ続けることができている人は
ウチの娘以外にもたくさんおられます。

じっさい、こうした食形態の工夫ができなかったら、
健康リスクを考えて経管栄養にならざるを得ない人は多いのではないでしょうか。

多くの重症児者施設では、
いかにして口から食べられる期間を延ばしてあげられるか、と
多職種チームで粘り強くがんばってくださっています。

例えば、重症児者の食を誰より大切に考え続けてくださっている、私の敬愛する医師、
つばさ静岡の浅野一恵先生の摂食リハについての理念はこちら ↓
http://www.tsubasa-szok.net/2009asano.htm

重症児者ケアにとって、「食べる」ことのケアとは、
これほどに大きく深い問題なのです。

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海は何年か前に、ムセがひどくなって、
ついに口から食べるのを諦めないといけないのかと不安になった時期がありました。

それでも、いや、まだ工夫できるのではないか、と
食の全面見直しに取り組もうとする母親の思いを受けて、
療育園がまず実施してくださったのはSTさんによる摂食機能評価でした。

主食はその時に一旦ミキサー粥になりました。
ここは本人も、家に帰る週末に全粥や柔らかいご飯を約束されて、しぶしぶ納得。

またSTさんがスプーン一口の分量を実地に提示し、口に入れる際の注意点などを含め、
食事介助の要点を介助に当たるスタッフに指導してくださいました。

食事の際に車イスを倒すリクライニングの角度や姿勢についても、
STさんとOTさんによって再確認。

介助の仕方を注意すれば、おかずの形態は「なめらか食」でいけそうでしたが、
しばらく確認の為に、食事のたびにどのくらいムセたかを記録し、
一定の期間をかけて確認してくださいました。

その間に、我が家でも、食形態と食べ方・飲み方の徹底見直しを実施。
担当看護職、支援職の方々に相談に乗ってもらいながら、
様々な工夫と改善をしました。

今まだ、例えば先週末など、近所の焼肉屋へ親子で出かけることができていますが、
その際に持参する介護食(この日は「グリルド・ビーフ」と「洋風野菜のスープ煮」)の常備も、
炭火で焼いた肉を、小さなすり鉢とすりこぎで父親がすりつぶす工夫も、
それをなめらかに延ばすための自家製「洋風とろみ出汁(メニューによって和風も)」も
みんなその時に導入した工夫の一部です。

また体力的に昼食時のほうが夕食時よりも元気なので、
お昼を、主菜と副菜、いくつかの形態が混じった食事とし、
夕食はどんぶり系で一つの形態のものをひたすら食べる内容へと
それまでの昼食と夕食の内容を逆転することで、ムセが少なくなりました。

そうやって、園でも我が家でも食の全面見直しをした結果、
海はまた上手に食べられるようになり、
そうなると、こいつは黙っているようなタマでもなく、

我が家に帰った折に、
「お粥はイヤだ。食べない。普通のごはんをもってこい」とストライキを断行。

そういうやりとりを通じて結局、
本人が園でのミキサー粥も「全粥に戻してほしい」と訴えるものだから、
母がそれを代弁したところ、療育園では関係者がまた協議してくださって、
またぞろ「食事介助のたびにムセの回数を記録」が復活。

慎重に検討の結果、めでたく主食も全粥に戻してもらって、今に至っています。
今週末は、介護食の「海鮮ちらし寿司」をもって近所の回転寿司に出かける予定。

重症児者施設に集約されている多様かつ専門性の高い支援資源と、
それらの専門職と母親とが長年の間に培った信頼関係、
さらに海自身の意思表示を受け止めてもらえるだけの信頼関係が
本人とスタッフの間にあってこそ、
なんとか維持することができている海の食事です。

【15日追記】
週末のくるくる寿司の首尾はこちらに ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/65553219.html

        ==

誤解しないでもらいたいのですが、
私は「だから重症児者は施設で暮らすべきだ」と主張しているのではありません。

できることなら、誰でも地域で暮らせるように、
本当の意味での地域包括支援システムが整備されてほしいと願っています。

私が望むのは、
「どんなに重い障害があっても、一定の年齢になったら親元からはなれて、
その人のニーズに即した適切で十分な支援を受けながら、
地域で家族や友人との関係性を大切にしながら、その人らしく暮らせる、
そしてそれが、子どもの時から自然に準備されていくような社会」です。

しかし、今は実態として、そういう社会は到来していません。
すぐにできるとも思えません。

資源が整っていて、自治体もお金を持っている都会の人は
他の地域のことにまで想像力が及びにくいようですが、
そんなに恵まれていない地方がほとんどです。

これから地域での支援整備を進めていくにしても、重症児者ケアの特異性を考えれば、
重症児者医療とケアの専門的知見と資源が蓄積されてきた施設が果たすべき役割は大きいはず。
地域のネットワークの中で中核的な機能を担うべく位置づけられ、
それだけの予算措置がされることが不可欠です。

相模原の事件から後、
重症児者の特異なニーズとその周辺の事情が置き去りにされたまま
「施設無用論」と「地域移行」だけが直線的に説かれることに、
私は重症児者の親として、我が子の命が脅かされるような脅威と圧迫を感じています。

また、今の社会の現実を背景にすれば、それは、
すでに老いている親に介護負担が負わせ続けられることを意味してもいます。
そのことにも、大きな不安を感じています。

確かに地域によっては、重症児者も入れるGHができてきているのかもしれません。
けれど私が最近、耳にしている事例では、GHとはいえ、
週末は親元に帰されるところがあるとのこと。

これではGHは「親亡き後」への親の不安を解消する手段にはなりません。

また「脱施設」「地域移行」を主張する人たちはあまり触れられませんが、
地域でも、人が足りなくて介護も支援も制度そのものが空洞化してきている
現実があるはずです。

個々の固有の当事者も親も「架空の正しい社会」を生きることはできません。
矛盾に満ち、どこを取っても正しくないことだらけの、
目の前の現実を生きる以外にないのです。

すでに60代、70代、80代にすらなっている重症児者の親の多くにとって、
いま現在、「親亡き後」を安心して託すことのできる「最後の拠り所」として
頭に浮かぶのは、やはり重症児者施設になるように思います。

固有の大きなニーズを持った子どもと固有の事情を抱えた家族が
固有の環境で固有の人生を生きて行くために、
多くの親は現実に可能な選択肢の中から決断をせざるを得ませんでした。

それぞれが生きている地域社会の、決して十分ではない資源の中で、
すでに老いている親たちが、最後の砦として施設しか思い描くことができないのは、
果たして、個々の親の責任なのでしょうか。



【16日追記】

個人的な体験を中心に1から3のエントリーを書いた後で、ちょっと気になったので、
客観的な情報や以前ブックマークで拾っていた事例の関連情報から、
このシリーズの「エントリー4」として、主に「合併症」について追記してみました ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/65556566.html