被害者の尊厳

このところ、よく思いだすのは、この本のこと ↓
勝村久司『僕の「星の王子さま」へ』1(2015/9/23)から3エントリー

どういう本か、1のエントリーから抜くと、

「医療情報の公開・開示を求める市民の会」世話人で、
現在も医療事故調査制度の問題点を鋭く指摘するなど、
医療事故や安全の問題を中心に
患者の立場から医療の壁に挑み続けておられる勝村久司さんの本。

勝村さんの妻の理栄さんは、1990年の第一子の出産の際に、
全く知らされることなく、病院側の都合で、
極めて不注意で乱暴なやり方で陣痛促進剤を投与され、
赤ちゃん(星子さん)は9日後に死亡、お母さんのほうも命の危険に晒された。

夫婦は裁判を起こし、一審の敗訴を乗り越えて、ついに勝訴。
その10年間の壮絶な闘いが、抑えた筆致で記録されている。


なぜこの本を何度も頭に思い浮かべるのか、という理由は、
たぶん、3のエントリーのこのあたりなのだろうなぁ、と思う ↓

この本を読みながら、勝村夫妻の体験と
私たち夫婦の体験が重なっていると感じることは他にもたくさんあるのだけれど、

私がこの本をどうしても読んでみたかったのは、なによりもまず、

入所施設で保護者が異議申し立ての声を上げた時に体験することの数々が、
医療過誤の被害者の体験に実は似通っているのではないかと、
最近、少しずつ考え始めているからだ。

そして、読めば読むほど、
そうだ、やっぱり同じだ……と、再認識した。

もちろん、私の体験してきたことは、
勝村さんやほかの医療過誤の被害者の方々に比べれば
ほんの玩具のようなことに過ぎないというのは分かっている。

でも、ダイナミズムやことの大小は違っても、
医療機関や医療職が外部から脅かされた時の反応のパターンは、
全く同じような気がする。

過ちを認めない
姑息なウソをつく
事実を隠し、情報操作をする。
「対応しない」という対応に逃げこむ。
被害者や批判者を「モンスター」に仕立て上げる。
「何を言っているか」にではなく「文句を言っている」ことに反応する。
問題の解決を目指すのではなく、黙らせるための策を打つ
信頼関係を築こうとするよりも権威でねじ伏せようとする。
加害しておきながら、勝手に被害者になりすます

要するに「誠意のない対応に終始する」のだ。
(ゴチックは今回の引用でspitzibaraが追加)

これは、たぶん医療の世界に限らない、
強い側にいる者によって踏みにじられた弱い者の共通の体験なのだろうなぁ、ということを
このところ体験的に考えさせられている。


何よりも今の私の気持ちに沿ってくるのは、
3のエントリーに引用している、以下の勝村さんの言葉。

 被害の辛さ以上に、被害が「被害」であったことを認めてもらえない辛さに、皆苦しんでいる。

 被害者は、どうすれば人間としての尊厳を回復できるのか。医療裁判に人々が取り組む理由の本質が分かりかけたような気がした。
(p. 218)
(ゴチックは同上)


被害の辛さ以上に、被害が「被害」であったことを認めてもらえない辛さ――。

たぶん、医療過誤に限らず、
本来なら当たり前に尊重されるはずの権利を踏みにじられた多くの被害者は
ただ、ありのままの事実を誠実に認めて、謝罪してほしい、
踏みにじられた側の痛みを分かってほしい、と、
その誠意を求めているだけなのに、

どこまでも強い側が我が身を守ることに終始して、
本当は認めているからこそ事実を認めるわけにはいかない、というのでは、
被害者は傷つけられた尊厳を回復できない。

被害が「被害」であったことを認めてもらえない辛さに、
不誠実な対応によってさらに何度も尊厳を傷つけられる体験が重なっていけば、
裁判へと追い詰められていくのだろうなぁ。

……わかるよ。