McMath事件:「自己決定」と「脳死」をめぐる生命倫理学者の発言の不思議
Jahi McMath, Brain Death, and the Lies of the Medical Establishment
Gratiaetnatura’s Blog, December 31, 2013
Gratiaetnatura’s Blog, December 31, 2013
というのも、
今月22日に某所でちょっとお話させていただくことになっていて、
その最後に昨年11月のバウアーズさんのケースとMcMath事件の2つを簡単に紹介しようと思っている。
今月22日に某所でちょっとお話させていただくことになっていて、
その最後に昨年11月のバウアーズさんのケースとMcMath事件の2つを簡単に紹介しようと思っている。
患者が「死ぬ」という方向で「自己決定」しようとする時には
生命倫理学者はしきりにこういうことを言ってくれるけど、
患者や家族が「生きる」「生きさせてほしい」と「自己決定」しようとすると
生命倫理学者はにわかに別のことを言い始める、という話。
生命倫理学者はしきりにこういうことを言ってくれるけど、
患者や家族が「生きる」「生きさせてほしい」と「自己決定」しようとすると
生命倫理学者はにわかに別のことを言い始める、という話。
それは、これまでも何度も書いたり言ったりしているように、
「無益な治療」論による一方的な治療の中止や差し控えが一方で拡がっている以上、
「死の自己決定権」はすでに「権利」として成立していないし、
概念としても崩壊してしまっているのではないか、という疑問でもある。
「死の自己決定権」はすでに「権利」として成立していないし、
概念としても崩壊してしまっているのではないか、という疑問でもある。
それが、以下の下り。
Current bioethicists tend to think that patient autonomy is fine when the patient (or the patient’s family in the case of an incompetent patient) refuses care. But if a patient or patient’s family wants continued care, then there are appeals to “futility,” as if “futility” is not a value-laden term. “Death” is also a value-laden term and can be used for utilitarian ends such as justifying organ harvesting from heart-beating donors or to save money by removing a ventilator from a little girl. The hypocrisy of many doctors, hospital administrators, and “bioethicists” is sickening.
それから、
カプランやマグナスが誤診の可能性があることを知らないわけでもないだろうに
「脳死と診断されたらその人は死者、死体」と主張していることについても、
科学の名の下に科学の絶対性を説くというのは
実はとても非科学的な姿勢なんじゃないかという
疑問を感じてきたし、
カプランやマグナスが誤診の可能性があることを知らないわけでもないだろうに
「脳死と診断されたらその人は死者、死体」と主張していることについても、
科学の名の下に科学の絶対性を説くというのは
実はとても非科学的な姿勢なんじゃないかという
疑問を感じてきたし、
逆に「脳死者は死んでいない」可能性があることを認めつつ
デッド・ドナー・ルールの撤廃を主張してきた生命倫理学者が
カプランらの「脳死と診断されたら死者」の主張に揃って口をぬぐっているとしたら
それは論理的にも不整合だし、学者として不誠実なんじゃないかと感じていたのだけれど、
デッド・ドナー・ルールの撤廃を主張してきた生命倫理学者が
カプランらの「脳死と診断されたら死者」の主張に揃って口をぬぐっているとしたら
それは論理的にも不整合だし、学者として不誠実なんじゃないかと感じていたのだけれど、
その点についても、
I respect Arthur Caplan as a significant scholar in bioethics. What I cannot respect is his ignoring opponents of brain death in his public statements as if there is no current debate on the topic in academia. It reveals a lack of respect for opponents of brain death criteria, some of whom are physicians (Dr. Coimbra and Dr. Alan Shewmon as well as the late Richard Nilges practice or practiced neurology). Professor Caplan is surely aware that just because a law says death occurs at a certain point does not imply that the law is correct. Many bad laws have been passed–the UDDA may be another example of bad law.
以下、えりさんが発掘してくださっている関連のお宝情報を取り急ぎメモ。
結論は
American neurologists do not have a consistent rationale for accepting BD as death, nor a clear understanding of diagnostic tests for BD.
③ 現行でも脳死と診断された人が必ずしも全脳死に至っているわけではないので、と
デッド・ドナー・ルール撤廃を主張する2005年のPottsとEvansの論文。
TruogとRobinsonの論文が援用されている。
デッド・ドナー・ルール撤廃を主張する2005年のPottsとEvansの論文。
TruogとRobinsonの論文が援用されている。
【McMath事件関連エントリー】
脳死と診断された少女の生命維持をめぐるMcMath訴訟(2014/1/4)
続報から考えるMcMath事件、「脳死は死」と「無益な治療」論の問題点(前)(2014/1/22)
続報から考えるMcMath事件、「脳死は死」と「無益な治療」論の問題点(後)(2014/1/22)
McMath事件: 医療過誤と「生命維持停止」を巡る“倫理”問題のカラクリ(2014/1/25)
McMath事件は、どんどん醜くなってゆく(2014/1/31)
脳死と診断された少女の生命維持をめぐるMcMath訴訟(2014/1/4)
続報から考えるMcMath事件、「脳死は死」と「無益な治療」論の問題点(前)(2014/1/22)
続報から考えるMcMath事件、「脳死は死」と「無益な治療」論の問題点(後)(2014/1/22)
McMath事件: 医療過誤と「生命維持停止」を巡る“倫理”問題のカラクリ(2014/1/25)
McMath事件は、どんどん醜くなってゆく(2014/1/31)