「自己決定権」と「医療の不確実性」の関係をぐるぐるしてみる 1

しばらく前から、訳あって「自己決定権」ということを考えていたのだけれど、
そうすると、そこから「医療の不確実性」のことが気になり始めて、
その両者の関係というところで、この頃ずっとぐるぐるしている。

簡単に言ってしまうと、ぐるぐるしているのは以下のような疑問。

「患者の自己決定権」というものは、
本来「医療の不確実性」を前提している概念だったはずなんでは……
ということに、はたと思いが至ってみると、

でも、それがどうやら「死ぬ」「死なせる」という話の周辺では少しずつ変わってきていて、
いつのまにか「医療の確実性」が前提になっているような気がするんだけど、

それって、どういうことなん????


「自己決定権」をめぐるグルグルの中から
「医療の不確実性」へと意識が向いたきっかけは、

2008年にエントリーにした以下の事件について、
最近になって、当時の思いがけない報道を発見したことだった。


この事件の概要を簡単にまとめると、

白血病で闘病してきたけれど、とうとう終末期に至った13歳の少女に
医師らは心臓移植を進めたが、

手術のリスクに加えて
術後の拒絶反応抑制のための薬が白血病の再発を招くことから、
本人が拒否。

両親もその決定を支持したので
医師らが児童保護局へ通報し、裁判所が手術を受けるよう命令を出した。

それに対して両親はNHSトラストに苦情を申し立て、
本人と面談の結果、児童保護局が本人の意思を尊重することにした。


私はこのニュースを
当時は無料で読み放題だったTimes誌のニュースを読んで上記のエントリーにした。

以来、この件については、
16歳の少年の抗がん剤治療拒否が認められた2006年のCherrix事件と同じ、
「成熟した未成年 mature minor」に「望まない医療を拒否する権利」が認められたケースと捉えていた。

2006年のCherrix事件では「尊厳死」とみなす捉え方は報道にも議論にも無かったような気がするし、
まして「死ぬ権利」だとは誰も言わなかったように思う。

Hannahの事件も、私は
「望まない医療を拒否する権利」の問題として捉えて、そこで留まり、
それを「尊厳死」や「死ぬ権利」と特に結び付けて考えることはしなかった。

ところが最近、ひょんな偶然から、この事件が別の新聞では
「少女が『尊厳死』を選択した」事件として報道されていたことを知って、大きな衝撃があった。

英国で白血病の13歳の少女が尊厳死勝ち取る
日刊スポーツ、2008年11月11日

それで、ここで元記事とされるテレグラフ紙の検索で
当時の同紙の記事を2本読んでみた。



上の記事ではリード部分で
「“命を救う”心臓移植 “life-saving” heart transplantをなぜ受けたくないのか」
という表現を使っており、

下の記事のリードはHannahについて
「命を救う心臓移植を拒んだ終末期のティーン」と説明している。

下の記事の書き出しは、
「Hannah、13歳は尊厳をもって死にたいと望んだが……」

記事冒頭のビデオのタイトルは
「終末期のHannah、死ぬ権利を勝ち取る」

そういうところに強い違和感があった。

ビデオを見てもHannah自身は「尊厳をもって死にたい」なんて一言も言っていないし、
言っているのは「医療も病院暮らしももうたくさん」「あとは家で家族と普通に暮らしたい」ということ。

2008年11月の英国というと、すでに6月にパーディ裁判が起こされ、
中途障害で四肢マヒになった23歳の青年のスイスでの自殺が報じられた直後。
「死ぬ権利」「死の自己決定権」を求める論争がいよいよ本格的に過熱し始めていた時期に当たる。

テレグラフ紙がこの事件をそうした文脈に位置づけようとする背景には
そうした英国社会の空気も影響していたのだろうことは容易に想像される。

それはそれとしても、すごく気になるのは、そこにある
Hannahに提案された心臓移植をLife-saving(救命効果のある)とする捉え方。

この記事によると、
子どもを説得して心臓移植を受けさせるべきだという批判が、両親に対して噴出していたらしい。

そう批判する人々もテレグラフ紙のように、
医師が児童保護局に訴えてでも強要しようとした心臓移植について
life-saving (救命効果がある)なものとする認識だったのだろうな、と思う。

「心臓移植手術さえ受ければ助かるのに」という前提に立って
それを受けさせない両親に対する「子どもを見殺しにするのか」との批判なのだろう。

両親を批判する人やHannahの決断を「尊厳死」と呼びたい人には
「医師が薦める心臓移植=確実な救命・延命」vs「それを拒否すること=確実な死」という構図がある。

でも、それは、
そもそもの現実認識として間違っているのでは……?

そこのところをあれこれ考えていたら、
ぼんやりと頭に浮かんできたのは、

本来、患者が「望まない治療を拒否する権利」としての「自己決定権」というのは
医療の不確実性を前提にしたものだったはずでは……? ということ。

Ablahamの場合の抗がん剤もHannahの場合の心臓移植も含め、
治療の効果はさほど確実なものではないから、
その不確実性の結果を負うことになる患者自身を不在にしたまま、
医師がパターナリズムで勝手に決めるのはやめてほしい、
治療の選択肢に伴う不確実性を引き受けるしかないなら、
自分のことなのだから納得した上で自分で決めたい――。

それはその結果を引き受ける患者の権利――。

インフォームド・コンセントの土台にあった考え方というのは、
本来、そういうものだったんでは?

つまり患者の「自己決定権」というのは、
その前提の「医療の不確実性」とセットのはずだったんでは、と。

だからHannahの「望まない治療を拒否する権利」行使について
それを「移植医療さえ受ければ延命できるのに拒否させるなんて」と批判することも、
逆に「延命可能な治療を拒否して自ら死を選んだ尊厳死」の権利獲得!と持ち上げることも、
両者は逆方向でありながら「医療の確実性」の前提のところが共通していて、
それゆえに、そこのところで両方とも的が外れているんでは……

と、そこまで考えた時に、ふっと、思った。

そういえば最近の医療で「死なせる」議論って、その土台のところが
「医療の不確実性」じゃなくて、どこかで「医療の確実性」に摩り替わっていない???

例えば、「無益な治療」論は
医師の専門性を根拠に医師に医療の差し控えと中止の決定権をゆだねるものだから、
そこには「医療者の判断の確実性」が前提として織り込まれているし、

生命倫理学者のNorman FostやJohn Parisは
親がなんと言おうが裁判所がなんと言おうが
「医療について決めるのは医師だ、無益と思う治療は断固やるな」と
医師に向かって檄を飛ばしている。
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/18312193.html
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/19179333.html
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/20300869.html

最近では、昨年11月の米国インディアナ州でのBowers事件で、
木から落ちて全身マヒになった人を、
「一生寝たきりの人工呼吸依存になる」という医師の予後予測をもとに、
事故の翌日に「本人の自己決定」で呼吸器をはずして死なせた。

その時に、なぜセカンドオピニオンを誰も求めようとしなかったんだろう、とか
なぜ、せめてしばらく様子を見よう、という姿勢が無かったんだろう、とか
この医師には自分の診断や説明が即座にこんな重大な決断に直結することに対しての
戸惑いとか逡巡とか忸怩たる念のようなものはなかったんだろうか……みたいなことを
私はぐずぐずと考えたのだけれど、

そうか、あれは
そこで「医療や医療職の判断の不確実性」が省みられていないことへの
漠然とした違和感だったんだな、と、こうして考えてみれば理解することができる。

それから
McMath事件をめぐってThaddeus PopeやArt Caplanらが
脳死”概念についてもいまだ諸説あり、誤診事例も報告されている中で、
「医師が脳死と診断したら、その人は死体」なのだと強硬に主張し続けていることにも、

なんで、そんなに断定しきれるんだろう、という素朴な疑問と同時に、
その断定の仕方に、なにかとても傲慢で不遜なものを感じてきた。

なるほど、それも、「医療の不確実性」を全く省みない姿勢が
私には「傲慢」とか「不遜」という印象を与えているということなんだな、と納得できる。

最近のオランダの薬剤師による毒物拒否問題
反発する医師らの発言の行間から聞こえてくるのも、「医師の判断を疑うな」という主張。

考えてみれば、それは上のFostやParisが
「給料が安いから真面目にやらない」と司法職を愚弄するほどの強い反発とともに説く、
「無益な治療」論の「高い専門性を根拠にした医師の決定権」へと回帰していく。

つまり、このところの「死の自己決定権」「死ぬ権利」論や「無益な治療」論では
医師の高い専門性が「医療の確実性」を担保するかのような前提がある……?

私はこれまで
一方で進行し、どんどん対象者像を拡大する「無益な治療」論によって
「死の自己決定権」概念そのものが崩壊してきていると考えてきたのだけれど、

上のように考えてくると、それとはまた別に、
本来は「医療の不確実性」を前提として成り立っていたはずの「患者の自己決定権」そのものが、
その前提であった「医療の不確実性」を見失い、
「医療の確実性」に立脚して論じ始められていることによっても、
立脚点を失って、崩壊している、と、もう一つ広い捉え方もできるのかもしれない。

それは、でも、もしかしたら、
患者の「死の自己決定権」だけに留まらず、
医療全般において患者の「自己決定権」が本来のあり方とは異質なものへと
変質して(させられて)いこうとしている、ということなのかもしれないし、

それって、すごく恐ろしいことなのでは?


次のエントリーに続きます)